いまでは知る人もいない。かつてブリヂストンサイクルがスキー用品の事業化を図ったことを……。
企業が多角化経営を企図する場合、既存の技術やノウハウを活用して展開する例がほとんどである。今日ならM&A(企業の合併・買収)という手っ取り早い手法もあるが、半世紀も前では地道に一から始めるしかなく展開できる分野は限られる。
“自転車とスキー”関連性の乏しい2つの市場に挑み、あえなく散った“雪国の2毛作”物語”を紹介する。
(1)
1974年2月、アルプス山脈につながるイタリア最北部は、雪こそ降っていないものの寒風が吹く冬の季節であった。
ブリヂストンサイクル企画部長横芝正志は、ミラノから風光明媚で知られるコモ湖を通り過ぎ、キアベンナという寒村にある「ペルセニコスキー」の工場で自動車を降りた。ペルセニコは日本では知られていないが、イタリアの中堅スキーメーカーである。
「社長にお目にかかりたいのですが」
「アポイントはありますか?」
「はい、日本から一ヶ月ほど前に連絡して、今日工場で待っていると返事をいただいています」
入口の案内所の守衛は戸惑った様子で答えた。
「社長とはミスターペルセニコのことですか?彼なら、つい最近会社を辞めました」
「え!それは本当ですか?」横芝は思わず絶句した。
改めて工場を見回すと、どこにもペルセニコの表示は見当たらない。あるのは、アメリカの総合スポーツ用品企業「スポルディングスキー」の看板だけ。
呆然と立ちすくむ横芝を見て、守衛はイタリア訛りの英語で説明する。
「社長は会社を丸ごと売却して、つい一週間ほど前に奥さんを連れて世界旅行に出かけましたよ……」
(2)
横芝は突然の買収話に驚いた 。
買収は極秘だったのだろうが、せめてアポのキャンセルぐらい連絡してくれよ、と心の中で毒づきながら、気を取り直し守衛に頼んだ。
「新社長はおられませんか?せめて工場見学をしたいのですが」
「まだ赴任していません。ミスターペルセニコの息子さんならいますよ」
しばらく待つと、若い男が出てきて自己紹介した。
「レイモンドと言います。私も間もなく会社を辞めるので、新社長の決裁がなくては内部をお見せできません」
「差し支えの無い範囲で結構です」
工場内を一瞥できる場所に案内されると、ヒッコリーなどの木製スキーが中心だが、ウレタン樹脂系の材料でも生産しているのが遠望できた。樹脂製は木製よりも工程が単純化され、大量生産が容易にできそうだ。
日本で見た木製スキーの工場では、木材の乾燥から始まり、数枚の板の張り合わせや曲げ加工、グラスファイバーの表面貼り、エッジの金具付け、塗装や磨きを繰り返し、最終乾燥まで15工程を要して複雑である……。
「これ以上はお見せできません」と言われ工場を後にしたが、もう少しスキー生産の実態を調べる必要を感じた。
ミラノに帰りあちこち問い合わせると、設立間もないスキーメーカー「サルナー」が最新鋭の工場を稼働させたと聞き、アポイントをとった。
サルナーは、ミラノからヨーロッパ特急(TEE)に乗り、ドイツ国境に近いイタリア・ボルツァーノで下車、さらにタクシーで一時間ほどの山深いところにあった。
工場には木製スキーは全くなく、金型で生産する樹脂製だけ。これなら材料の調達が容易、機械化されて工程も減り、生産性や品質均一性に格段の優位性があるようだ。
樹脂製はいずれ木製を駆逐するに違いない。だが、大量生産が可能なだけに、暖冬などで需要が低迷すると価格競争になりやすく、経営に支障をきたす。
いま、進めているスキー事業化を見直す必要がありそうだ、と思案した……。
(3)
話は5~6年前に遡る 。
そのころ自転車店の巡回調査をするたびに、横芝がいつも気になるのは、自転車店経営の零細性・脆弱性であった。
なかでも北海道や東北の雪国地帯では、冬になると自転車が全く売れない。多くはお客の自転車を春まで預かってオーバーホール代金で稼いでいるが、店を閉めて出稼ぎに行くケースもある。
店舗と顧客を活かす方策はないか?
ある日新潟に冬はスキーを売って繁盛している自転車店があると聞き訪問した。
「スキー販売の目的は?」
「もちろん冬場の売上のためだよ。最近はオーバーホールも減っているのでね。冬でも店舗を活用すれば店員の維持もできる。幸い近くには競合する運動具店がないしね」
「いつごろから?」
「10年ぐらいになるかな。本格的に力を入れたのはスキーが流行り出した4~5年前からだよ」
「店内の展示自転車は冬にはどうするの?」
「12月から3カ月間は倉庫にしまい、店内はスキーだけを陳列する」
「宣伝は?」
「チラシをまいたり、立看板を出す程度。でも、お客が通学車や少年車と重なるので、スキーを売っていることは結構知られているよ」
「儲かる?」
「荒利はざっと25%。月平均は自転車と同じぐらいだね」
「技術が必要では?」
「自転車に比べればスキー金具などの修理は簡単、収入にもなる」
そこで新潟だけでなく北海道や東北の実態調査をしてみると、スキーを扱う自転車店はそれなりにある。スキーと自転車の相乗効果もある。
どうやらスキーは、雪国の自転車店の二毛作として少しは経営に役立ちそうだ。
それならばブリヂストンの手で一括供給をしよう……。
(4)
横芝はスキーの仕入先の選定を始めた 。
当時は海外の有名ブランド、ブリザード・ロシニヨール・ヘッドなどの輸入品はまだ始まったばかり、主力は日本メーカーであった。
大手のヤマハ・小賀坂・西沢・スワロー・風間から、矢内・波多・広沢などの中小まで50社ほどあり、工場は新潟や長野などに点在していた。
並行して販売体制づくりにも着手した。
北海道、東北、新潟などの自転車店を集めて「スキー講習会」を開催した。講師には、メーカーの役員や運動具店店主、プロスキーヤーを招き、商品知識や技術、販売のノウハウを教えた。
その結果、およそ100店の自転車店のスキー小売網ができ、卸は自転車販売会社が担当して、西沢とスワロー2社と直取引を開始した。
スキー販売は順調であった。だが、もっと売るには宣伝が必要だ。とはいえ他社品を宣伝しても仕方がない。
しかも組織的に自転車店がスキーを売り始めると、近隣の運動具店との価格トラブルなど問題がでてきた。
それならブリヂストンブランドの独自のスキーをつくろうか、と横芝は考えた。
ブリヂストンが企画・デザイン、生産は外部委託(いわゆるOEM)する。
しかしブリヂストンスキーをつくるとなると人手も投資も要る。これまでのような片手間仕事ではどうにもならない。会社の正式承認が必要、それには当社の黒岩登社長を巻き込むことだ。黒岩は大物だ、反対意見があっても押し切ってくれるはずだ。
横芝は一計を案じた……。
(5)
「北海道のスキー販売の実態を目で見て欲しい」と横芝は黒岩に頼み込んだ。
その出張に同行して、スキーの冬期商品としての有望性、ブリヂストンブランドのOEM化、宣伝の必要性を繰り返し説明した。
その事前レクチャーが効いたらしく、しばらくして黒岩は意気揚々と横芝に告げた。
「午前の役員会で、ブリヂストンサイクルの会社定款にスキー事業を入れることを議決したよ」
陪席した社長秘書によると、居並ぶ役員たちは突然飛び出したスキーの話に驚き、「スキーって何だ!」と、早くも反対の雰囲気だったそうだ。
「自転車は冬場に売り上げがないことが泣き所だ。これまで雪国の自転車店に企画部が独自で他社スキーの仕入れ販売をしていた。このたび自分も現場を見てきたが、スキーは冬場商品として有望だと思う」
黒岩は言い切った。
「来春、北海道に限定したテストマーケティングを企画部が計画している。うまくいけば事業化できるかも知れない。関係部門は協力して欲しい……」
(6)
横芝はヨーロッパのスキー市場の調査を終え帰国、企画部員を集めた。
「スキーの人気は海外でも高いが、メーカー動向は流動的だ。ブリヂストンスキーは、国内の西沢あたりにOEMしよう。商品はスキー板とストックに絞り、他の用品は仕入れることにする」


「こんどのテストマーケティングの目玉はテレビ宣伝だ。予算はわずかだから差別感のあるCMをつくろう」
そこで新潟・高田市(現・上越市)の日本スキー発祥記念館に行き、日本に初めてスキーを伝えたオーストリアの陸軍軍人レルヒ少佐の写真を使う許可をとった。
歴史を感じさせる銅像に、ブリヂストンスキーのイメージを重ねたCMができあがり、11月から1ヶ月間北海道限定でスポット宣伝を実施した。

反響は大きかった。これを拡大して全国の自転車店やスポーツ店に販売すれば、ブリヂストンスキーの事業化も夢ではないとさえ思われた……。
(7)
その後スキーは若者のレジャーとして予想通り大盛況になった。
しかし、世界の有名ブランドが日本にどんどん輸入されて恒常的な生産過剰になり、国産メーカーは経営難に陥った。
バブル経済崩壊期の1996年の推計によると、国産は50万台、輸入が100万台を超え、在庫は70万台に上ったという。
流通でもスキー販売店が各地に誕生、もはや自転車店の出る幕はなく自然消滅していった。
事業の採算性は乏しくなり、ブリヂストンサイクルは事業化を断念した
ペルセニコを買収したスポルディングも、スキーを中止したと聞く。
すでに引退した横芝は、今日では4~5社しか残っていない国産スキーの惨状と、中国製に追いやられて壊滅状態に陥った自転車の現状を重ね合わせながら、あの日のペルセニコスキーでの出来事を懐かしく思い出している……。