米国勃興と英米戦争

 19世紀後半、欧米の主要産業に成長した自転車工業。第三・第四世代の新製品を次々に開発して自転車国の絶対王者となったイギリス。量産システムを構築してイギリスを追撃する新興アメリカ。1890年代、王座を賭ける英米自転車戦争の幕が開いた……。

世界を制覇したイギリス(承前)

 18世紀後半からのイギリスでは、産業革命により工場制機械工業が始まり、自転車工業にも大量生産システムが構築されていった。

 必要部材として鉄鋼・ワイヤー・ゴム・皮革などを使う自転車は、これら周辺産業とともに発展、世界の主要機械工業の一つとして目覚ましい成長を遂げていた。あたかも多くの裾野企業を抱える今日の自動車工業の如きであった。

 それを支えたメーカーは、第三世代ペニーファージングや第四世代チェーン駆動安全型を考案したスターレイ一族の「アリエル」(後の「ローバー」)、その友人の「ヒルマン」、老舗「ラッジ」、最後発ながらトップに躍り出た「ラレー」、2位「フィリップス」、兵器から発展した「BSA」、のちにオートバイで名を馳せた「トライアンフ」など多士済々であった。

(産業革命による繊維の量産工場 写真:ウイキペディアより)

新興アメリカの台頭

 1865年南北戦争が終わったアメリカでは、豊富な国内資源を活かして高度な鉄鋼技術の開発など急速に工業化が進んでいた。

 1890年代になると、故国イギリスの自転車大流行がニューヨークなどのアメリカ東海岸の大都市に伝播した。

 男性には乗馬の代用、女性には自由な一人行動の用具として、人気は瞬く間に全米に広がっていった。

 全国の主要都市には20~30校の自転車教習所が開校され、ニューヨークのある教習所では入校者が5千人を超えたという。

 また、エール大学の学生トーマス・スティーブンスはペニーファージングに乗って世界一周、「自転車1万マイル」という旅行記を出版してベストセラーになった。日本にも立ち寄り話題を呼んだ。

 多くの自転車愛好家が集う週末サイクリングも盛んになり、毎年100万人ものサイクリストが誕生した。

 トラック競技も盛んになり、板張りの室内競技場があちこちにつくられた。

 労働者の年収の半年分にあたる1台150ドルもする高級レーシング車に乗って、レーシングクラブに加入することは金持ちの象徴であった。

  プロ選手も誕生、自転車レースは見るスポーツにもなっていく。

 1893年第1回自転車競技世界選手権がシカゴのトラックで開催された。それは1896年のアテネオリンピック、1903年のツールドフランスよりも古く、当時のアメリカの自転車熱を窺わせる。

 需要が急増すると、イギリスを中心とした欧州からの輸入車では賄いきれず、19世紀末期には国内に自転車会社が続々誕生していた……。

ホープ大佐とコロンビア

 アメリカで自転車が大流行する数年前、ミショー型発明者の一人とされるフランスのピエール・ラルマンが、新天地を求めて渡米した。

 前輪ペダル駆動のアメリカ国内特許を取り、アメリカ人キャロルとラルマン型ミショー車の生産をコネチカットで開始した。

 だが、時期尚A・早だった。販売不振で資金が尽き破産、特許もアメリカの退役軍人アルバート・ホープ大佐に売却した。

 傷心のラルマンはフランスに帰国。数年後ミシュー車の特許紛争が起こり再渡米、そのまま不遇のうちに亡くなるが死ぬまでこう言い続けたという。

「オレが発明したペダル車はミショーに盗られ、アメリカで生産を始めれば早や過ぎて失敗した。オレは不運だったなあ…… 」と。

  ともあれラルマンは、アメリカ自転車工業の先駆者の一人とされているが、ラルマンに比べ幸運に恵まれた男がいた。

ラルマンから特許を買った退役軍人ホープ大佐は、本業の馬車製造の傍らミショー車の生産をボストンで開始した。

(“アメリカ自転車工業の父”と言われたアルバート・ホープ大佐 写真:ベースボールマガジン社刊「自転車の歴史」より)

 1876年、ホープ大佐は「アメリカ独立100周年記念博覧会」を見学に行き、イギリス製ペニーファージングを見た。

 「とても美しい!技術も進歩しスピードも速い。アメリカでも流行するに違いない。自転車レースも盛んになる。よーし、馬車はやめて自転車専業でいこう」

 意を決するやホープ大佐は産業革命の本場イギリスに渡り、輸入代理権の交渉やイギリス流自転車量産システムを研究した。

 2年後の1878年、自転車会社「コロンビア」を設立、アメリカで最初のペニーファージングを発表した。コロンビア創業はのちにライバルになるイギリスのラレーより9年早かった。

(1889年 コロンビア製ペニーファージング 写真:前記に同じ)

 ホープ大佐は宣伝に力を入れた  

 アメリカのペニーファージングレースのチャンピオンウイル・ピットマンを宣伝に起用、そのビッグネームを使って販売を伸ばしていった。

 やがて安全型の時代が来ると、ベルトコンベアによる大量生産方式を導入、2000人の従業員が1分間1台のスピードで組立てた。

 有名なT型フォードのベルトコンベアの流れ作業による自動車大量生産システムは、コロンビアの自転車組立てラインを応用したものといわれている。

 コロンビアは世界最大の自転車会社になり、ホープ大佐は「アメリカ自転車工業の父」と呼ばれるようになる。

アメリカ首位に躍り出る。

 アメリカの自転車メーカーは、安い人件費で安い自転車を大量生産、イギリス車の半値に近い低価格を武器にヨーロッパに逆上陸、さらに世界各国に進出して王者イギリスと激しい英米戦争を繰り広げた。

 1895年、のちにアメリカ市場の覇者となる「シュイン」が設立され、アメリカ陣営はますます強大になっていった。

  19世紀末期はイギリスとアメリカ、どちらがトップだったか?

 確たる統計資料がない当時のこと、断片的な資料から類推すると、

 1899年、アメリカでは700社のメーカーが国内向だけでも年間200万台を生産、10人に1台の普及振りだったという。輸出を加えると250万台ぐらいであろう。

 同じ時期イギリスには手工業的な会社を含めて大小さまざまな1.000社を超えるメーカーがひしめいていたが、自転車人口150万人といわれたことやドル箱だった対米輸出大幅減から推して、年間生産100台超が妥当であろう。

 結論として、19世紀末アメリカは王者イギリスを抜いて、初の自転車王国の覇権を握ったと言えよう。

 だが、アメリカは低価格車の量産は得意でも、開発力や品質など質的にはイギリスに敵わず、英米覇権戦争の最終勝者は20世紀を待つことになる……。

4日前