“自転車事業の多角化”は極めて困難。自転車を“人力で動く乗物”を定義する限り、エンジンなどの機械力を使うとたちまち自転車では無くなる。歴史を振り返っても、オートバイ、自動車、そして稀に飛行機へと、事業の立て展開の例は多いが、自転車そのものの横展開の事例は少ない。近年は電動アシスト車の開発や、用途開発というべきマウンテンバイクぐらいだろう。
本稿では、自転車関連商品の事業化について語ろう。
(1)
半世紀も昔、1972年6月のことである 。
欧州行き日本航空の受付付近に「ブリヂストンサイクル/全国販社社長欧米視察団 御一行様」と大書した旅行社の幟がはためいていた。
今日でこそOLや学生も気軽に海外に行くが、当時は為替レート1ドル300円、海外出張もままならない時代であった。しかも18日間もの長い間、販売会社の社長が第一線を留守にすることは異例のことであった。
これには背景があった。
当時ブリヂストンサイクルは自転車とともにオートバイ事業を推進、ホンダ・スズキ・ヤマハ・カワサキに次ぐ第5位の地位を堅持していた。だが採算性が悪く、自転車はおろか自動車タイヤ部門の利益までも食う事態となっていた。
やむなくオートバイ事業から撤退、サイクル部門は自転車一本で生き残る方針であったから、意気消沈している販売会社の士気高揚は重要課題であった。
加えて、その頃アメリカで自転車ブームが巻き起こり、つられるように日本国内需要が伸張、自転車事業拡大が見えてきた。
こんな情勢下で、モラールアップと欧米自転車事情研究を2大目的に視察団を送り出したわけだが、視察団の責任者ブリヂストンサイクル企画部長横芝正志は、心中密かに第3の目的として新しい戦略を胸に秘めていた……。
(2)
さて20名近い大視察団は、海外が初めての「赤ゲット」組であったから、あちこちで珍談奇談をまき散らしながら旅を続けた。
因みに赤ゲットとは、もともとは東京見物の旅行者が“赤い毛布”(レッドブランケットの意)を携行していたことから、田舎から都会見物にきたお上りさんや慣れない洋行者を指す。現在では死語に等しいが。
横芝の考える視察団の第3の目的は「PARTS&ACCESSORY」(P&A)と海外で呼ぶ、自転車部品用品の欧米での販売実態の研修だった。
当時の日本の自転車店では商品として単体で売られることが無い補修用部品が、欧米では統一デザインの台紙にパーツごとに真空パックに入れられていた。また日本では見かけない多くのアクセサリー群が壁面にきれいに陳列され、手渡しと修理料金が明示されている。
それに引き換え日本では、P&Aどころか完成車の展示さえも少なく、必要ならカタログでメーカーから取り寄せる。修理客が来店すると、店の奥からごそごそ部品を取り出して狭い店先で修理する。料金も客によって違うなどいい加減な値決めも多い。
いわば販売業よりも修理業の趣きが強く、欧米の小売店を見た販社の社長たちには“目からうろこ”の気分であったろう。
視察団の最終目的地シカゴのシュウイン本社を訪れたとき、横芝は販社社長会を開き、シュウインのマーケティング担当副社長にも同席を願った。
「かねがね日本でもP&Aを事業化したいと考えていす。シュウインの現況は?」
「P&Aの売上高は自転車部門全体の2割。利益は経費があまりかからないのでそれ以上です」
当時のシュウインは、自転車店ルート専門で年間100万台以上の完成車を生産する世界の巨人。ブリヂストンはシュインの完成車OEM(相手先ブランドによる生産)の一部を受託していた。
「P&Aには売上だけでなく別の効果がある。自転車を使う生活がより便利に楽しくなり、自転車需要が増加する。このシナジー効果は大きいです」
シュウインの副社長はさらに言い継いだ
「それだけでなくP&Aがあれば、店内が華やかになって集客できる店になます。今や専門店の店舗づくりには不可欠の分野です……」
横芝は“百聞は一見に如かず”、“将を射んと欲すればまず馬を射よ”の諺通り、シュウインの実態を見た社長たちの共通認識はできた、日本でも成功するはずだ。
だが……。
(3)
帰国するや横芝はP&A商品化の準備を開始した。ところが、その情報が業界を駆け巡り反対の声が高まってきた。
「完成車のトップメーカーがどうやら部品の製造販売を始めるらしい。我々の売上が奪われる」と既得権を侵されるとして一部の部品メーカーは騒ぐ。
「どうやら修理部品の持ち帰り販売をするらしい」と修理収入が無くなるとばかり、自転車小売店も反対の構えである。
噂は広がり、「(錠前や空気入れのような)零細分野に大企業は進出してはいけないという中小企業を保護する法律がある。だから参入阻止を図って提訴しようではないか」と自転車部品卸組合の一部の理事は戦闘モードだそうだ。
横芝もその法律を知らなかったわけではない。もともとブリヂストンは完成車だけでなくフレームや一部の部品、サイクルタイヤを製造販売している、すでに事業化している同一分野を拡大しても問題はないと思っていたのだ。
弁護士に相談しても、勝てると思うが訴えられれば争いは避けられない、と頼りない。自転車は自動車と同じように部品を集荷して完成車に組立てるアッセンブル商品だ。部品業界とのトラブルはできるだけ回避しなければならない。
横芝は結論を出した。
やむを得ない。事業化を遅らせよう。3年がかりでゆっくりやろう。
最初の年は、部品は避けて用品に限定しよう。しかも既に市販されているが、自転車店では扱っていないアクセサリーなどを自転車用に工夫して商品化する。これならトラブルは起こらないし、利益を生む新需要もつくれるはずだ。
1年目が始まった。
第一号は、スリーボンド社のパンク瞬間修理剤「タイヤパンドー」。既存の自動車用を特製小型ボンベに入れて自転車用とし、通学途中のパンクに備える緊急用として開発した。

第二号は、東芝シリコーン社の一般用金属磨き剤「スベリカ」。金属磨きや錆び落としの自転車用として、パッケージデザインを変えて商品化した。

次いで日立の「サイクル電池」。性能は一般電池と同じであったが、あえてカバーデザインにサイクル用と入れて、オリジナル卓上陳列台をつくり販売した。

さらに当時流行の「US・ARMY」マークの米軍戦闘イメージの肩掛けバッグをフロントバッグ兼用に仕様変更、また当時は競輪用しかなかったヘルメットを乗馬用に改良、「サイクルヘルメット」と呼んで商品化した。
このように、アイデアを社内外から集めて、最初の1年でおよそ10数品目を商品化した。
(4)
品揃えは進んだが販売店への売込が進まない。当時の自転車店は仕入れリスクをとる考えはなく、委託販売ならいいよというのがほとんどだった。
販売を推進すべき肝心の販社社長は、欧米視察で戦略は理解しているものの、総論賛成各論反対。取扱経験の無い商品ばかりだから、在庫リスクを感じてなかなか販売に応じない。
加えて共同開発品と銘打って発売した東芝金属磨き剤「スベリカ」に品質問題が発生、金属以外の樹脂部品や塗料にひび割れや変色を起こすことが判明、全数リコールのやむなきにいたった。販社販売店からは仕入れない口実とされる始末だった。
やむなく横芝は本社として強権発動し、販社の抵抗を押して計画数を割当強制出荷した。
こんな強制販売は、実務レベルでは容易ではない。本社の若い担当が、出荷伝票を切って貰うために説明にうかがいます、と言うと、ヘルメットをかぶって覚悟して来い、と古参の販社セールスから脅される始末であった。
そんなある日のこと。
かつて上司だった大先輩で関東2県を担当する販社の某社長から横芝に呼び出しがあり、やむなく面談に出かけると最初から喧嘩腰だ。
「君は一体何を考えているのかね。売れもしないがらくたのような用品を強制的に押しつけて、倉庫は不活動在庫の山になっている。しかも品質リコールまで引き起こしてだ。こんなことはすぐ止めたまえ!」
大変な剣幕だ……。
「P&A戦略はすでにご存知の通りです。将来の自転車事業発展のために是非やる必要があるのです」
「これまで黙っていたが、今はそんなことをしている時ではない!自転車販売に集中してシェアを上げる時期だ。こんなことに力を使う余裕はない!」
その言い分にも一理はあった。さらに対米輸出が急増、国内でも需要が急成長していたからだ。
「いえそうではありません。自転車が順調だからこそ、今のうちに新分野を手がけて将来に備えるべきです」
堂々巡りで話は終わらない。ついに横芝は言い切った。
「大変申しわけありませんが、企画部長として止めるつもりはありません。どうしてもと言われるなら、トップに話されて業務命令で中止指示下さい」
「……」
「それでは失礼させていただきます……」
(5)
2年目を迎えた 。
ごうごうたる批判を浴びながらも少しずつアクセサー類が売れるようになり、消極的だった販社もようやく力を入れ始めた。そのころからホームセンターなどでもP&Aを扱い始めた背景も幸いした。
なかでも品質問題を引き起こしたケミカル用品が、石原薬品(現石原ケミカル)の協力を得て、自動車用ワックスや金属磨き剤を自転車用に転用、手入れ磨き「サイクルポリッシュ」はヒット商品になっていた。
横芝は部品に進出するチャンスがきたとばかり、統一デザインのパック台紙に部品を貼り付け持ち帰り商品化、自社生産でなく部品メーカーにOEM委託したので、反対の声も少なくなった。

用品では単価が高く需要も多く、かねてから売上拡大の本命と考えていた錠前やバスケット、子供乗せなどの付属品、また空気入れやサイクルカバー、手入れ用品などの既存品の取扱も開始した。

一方独自開発にも注力した 。
プラスチック製空気入れポンプを、「らくらくクリスタル」とネーミングし、人気女優山本陽子の写真入り陳列台にセットして販売店店頭に大量配置した。
また地図会社武揚堂の協力を得て、北海道から九州までの7地区の推奨サイクリングコースを7冊に分けて「サイクリングマップ」として書店と自転車店両ルートで販売した。
「サイクルウェア」や「サイクルシューズ」を発売、スポーツ車需要振興には多少の効果はあったが時期尚早の感は免れず早々に撤退した。
3年計画が終わるころになると、もはやP&A商品化は既成事実となっているから今更訴えても仕方が無い、と自転車部品卸組合でも賛成派が増え、提訴は沙汰止みになったと聞いている。
(6)
様々な抵抗のなか、試行錯誤を繰り返しながらP&Aの売上は伸張し、事業単位として一つの部門になるまでに成長した。
近年、新たに2つの分野で大きな需要が生まれている。
一つは、スポーツ車普及に伴うウェアなどの関連グッズ。
もう一つは、電動アシスト付き2~3人乗り軽快車登場による子供乗せなどの用品類。
横芝は信じている 。
これからも創意工夫のもといろいろなP&Aを開発すれば、売上利益に寄与するだけでなく、自転車ライフを豊かにし完成車の需要拡大に繋がる。小さいながらもこれも事業多角化の一つの道である、と……。