イギリス王国の継承者

 1817年足蹴り式ドライジーネを発明したドイツは世界の自転車王国初代覇者となった。次いで覇権は、19世紀末第二世代型ペダル式ミショー車を開発したフランスに移る。さらに20世紀半ば、第三世代大型車輪のペニーファージング型・第四世代チェーン駆動安全型を続けて実用化したイギリスが王座を獲得する。

 19世紀後半に出現した絶対王者イギリス。来る21世紀にも王座は守れるか?その継承者は誰か?世界の覇権争いは続く……。

フランク・ボーデン
ラレーを起業する

 1870年代が終わりに近づいたある日のロンドン  

 「フランキー、君の体はもうこれ以上激務に耐えられないよ。永生きしたいなら少し休養すべきだ」

 フランク・ボーデンの診察を終えた友人の医者はそう言った。

 ロンドンの大きな法律事務所に勤務していた弁護士ボーデンは、数年にわたって香港で働いていた。18世紀半ばから始まった産業革命により、世界に羽ばく大英帝国を背景に仕事は多忙を極めていた。ボーデンはあまりの激務に衰弱して帰国したばかりであった。

 医者は勧めた。

 「しばらく仕事をやめて、エクササイズに励んだらどうかね。最近流行している自転車に乗って旅行でもして、健康を回復することが必要だよ」

(ラレー創業者 フランクボーデン)

幸い香港の成功で多額の報酬を得ていたボーデンは、医者の勧めに従い一時的にリタイアを決意、自転車を買い求めた。

 だが、二輪車には乗れない。三輪自転車「トライシクル」を買い求め、周辺を乗るうちに、すっかり自転車が気に入ったボーデンは、こんどは二輪車を練習して国内を走り回り、ときにはヨーロッパのあちこちを自転車で旅行した。

 ボーデンは健康づくりだけでなくサイクリングそのものが素晴らしいスポーツだと確信、自転車事業の将来性に着目、40歳の遅まきながら起業を決意した。

 1887年ノッテンガムのラレーストリートにあった小さな工房を買い取り、

 地名に因んで「ラレーサイクル」と命名、自転車会社として歩み始めた。

   これが有名なラレーの創業伝説である。

(ラレーのシンボルヘッドマーク)

凌ぎを削る王国のライバルたち

 世界の自転車王国を牽引したフランスは、1870年の普仏戦争で没落、覇権はイギリスに移っていた。

 当時は企業統計などない時代、定かな記録は存在しないが、イギリスには100社を超える自転車メーカーがひしめいていた。

 なかでもトップと目されたのは、巨大車輪で名を馳せた“自転車工業の父”ジェームズ・スターレイの会社だった。その後安全型で“現代自転車の発明者”といわれる甥のジョン・ケンプ・スターレイの「ローバーサイクル」に発展していく。

 ジェームズの共同経営者だったウイリアム・ヒルマンは、スターレイ一族と袂を分かち、コベントリー最大の機械会社と手を組み「ヒルマン&ハーバードサイクル」を設立。自転車だけでなくミシンや需要の大きいローラースケートの大量生産を開始していた。

 大手ではダニエル・ラッジの創業した老舗「ラッジ」。小規模自転車会社の団体を主宰、また初期安全型の発明者ローソンの工場が破綻するや救いの手を差し伸べたり、と業界の一方の旗頭であった。(日本ではラージと呼ばれて人気車になる)

 その他多くのメーカーが競い合っていたが、自転車史に残る有名ブランドは、

 のちに第2位のメーカーとなった「フィルップス」。モペットも製造

 銃器から自転車、オートバイ、自動車を製造した「BSA(バーミンガム・スモール・アームズ)」

のちにオートバイブランドでも有名になった「トライアンフ」・「ハンバー」・「カールトン」などなど……。

需要大爆発
業界に吹いた追い風

 ローバーを筆頭に100社を超える自転車企業がひしめくなか、業界に吹いた2つの追い風により、ますます需要は拡大していった。

 ひとつは速度と安全が両立する安全型の普及により、それまでスポーツ性が重視された自転車に実用性が加わり、女性も乗り始めたこと。

 もう一つは、空気入りタイヤの発明により乗り心地が格段に良くなったこと。

 もともと車輪の歴史は古く当初は木製のままだったが、やがて強度と耐摩耗性を増すため鉄製リンクが嵌められた。さらにグッドイヤーにより生ゴムに硫黄を加える加硫ゴムが発見され、1988年ダンロップにより空気入りタイヤが実用化された。

 この2つの発明により、前後同系車輪のチェーン駆動安全型は、古いボーンシェイカー(“骨ゆすり”と揶揄されたミショー型)・大径車輪のペニーファージング・三輪トライシクルなどを駆逐した。

 のみならず、それまで未開の大陸だった女性需要をも一気に喚起していった。

 この爆発する需要を獲得するのはどこか?王国の継承を巡る戦いは続く……。

ラレーごぼう抜き/トップに迫る
ボーデンの戦略

 1887年 従業員10名、年産150台でスタートした。ラレーはその後の3年間で、従業員600人、年産4万5千台に急成長する。

 さらに創業8年後の1986年には16基ものガスエンジンを動かして流れ作業をする、年産3万台の最新鋭工場を建設した。

   ボーデンは遅れて参入した業界の門外漢だったが、経営の才能に恵まれていた。今日でいうマーケティング戦略(商品力×販売力×宣伝力)を駆使して20世紀末にはトップグループの一角になっていた。

 代表的な車種は安全型を改良した日常生活用の頑丈な実用車「ロードスター」、女性用も開発、需要拡大に努力した。別名「ラレー型」と呼ばれて、全世界30国に輸出された。日本においても軽快車の原型となる。

(ラレーのロードスターダイアモンド型/スタッガード型もある)
(ラレーの女性車ポスター)

 ボーデンはなかなかの商売人だった。いくら大量生産してコストダウンできても売れなければ意味がないとばかり、従業員600人のうち400人をセールスマンにして販売力を強化した。

 もちろん宣伝や販促にも力を入れた。女性向けの宣伝だけでなく自転車レースも熱心で、スポーツ車需要喚起あった。

 ラレー所属のジンマーマン選手は世界チャンピオンにもなって1400以上のレースで勝ち、主戦場のアメリカでは「大統領より有名」とさえ言われた。

(ラレーのスポーツ車カタログ)

 ラレーの高級イメージづくりの宣伝は巧みで、高品質の最高級車と評価され、自転車の黄金期を享受していく。

業界を待ち受ける陥穽

 19世紀後半自転車産業は世界の主要産業のひとつになっていた。自転車工場は毎年倍増しても供給が需要に追いつかない。これからも需要は少なくとも2倍になるとされ、自転車に必要な機材をつくる鉄鋼・ワイヤー類・ゴム・皮革など恩恵を被る周辺産業も成長していった。

   だが好事魔多し。

 誰しもが繁栄の美酒に酔い痴れるなか、21世紀の扉が開くとともに思いかけない落とし穴が待ち受けていた。次代の王国はどこに向かう?

2か月前

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