ミヤタ・松下の仕掛けた子供車戦争。窮地に立つブリヂストン。打倒ミヤタを賭けた起死回生の仮面ライダー起用。かつてない大規模の宣伝予算獲得なるか?30年にわたり日本を席巻したキャラクター自転車誕生秘話。
(1)
あれは入社5~6年目、駆け出しの企画マンだったな、とブリヂストンの企画部長横芝正志は懐古する 。
1969年末、横芝は上司の企画部長席に行き直言した。
「近く発売予定のポニーカートを拝見しましたが、あれでは売れませんよ」
と担当外の仕事に口を挟んだ。
「何が悪いんだ!君は関係ないだろう、余計なことを言うな!」
日ごろから横芝と折り合いの悪い上司の企画部長は、ケチをつけるなと早くも喧嘩腰である。
そのころ宮田工業がピーターパンという画期的な子供車を発売、これが人気を呼んでブリヂストンも対抗商品の開発を迫られていた。
「ポニーカートはありきたりの子供車です。ミヤタ追撃の商品力がありません。そもそもネーミングが長ったらしくていけません」
「………」
「もっと差別化を図らないと、さらに評判が悪くなりますよ」
「たかが幼児車だ。これで何とかなるはずだ!」
「せめて車名だけでも語尾の“カート”をとって、幼児にも覚えやすいように、単に“ポニー”としたらどうですか?」
「そうじゃない、このカートが大切なんだ!そこに意味があるのだ!替えるつもりは全くないね」
どうやらカートはご本人の提案のようだ。
もともとカートの語源は二輪の荷馬車、いまではショッピングカートのような手押し車の意味もある。ポニーカートは自転車の形をしていてもカートだから3歳児でも安全、という理屈らしい。
この東大出の石頭め!そんな屁理屈で物が売れるかよ、と横芝は内心毒づいた……。
それから半年が経ち、横芝は企画部長の席に呼ばれた。
「発売したばかりのポニーカートの評判がとても悪い」
だから言わないことじゃない、と思いながら次の言葉を待った。
「販売第一線からはこれでは戦えないと、早くも代わりの新車を要求している。以前君は偉そうなことを言っていたね。こんどは君が担当してくれ」
「わかりました、やりましょう!」
(2)
当時の子供車はぜいたく品とされ、買い始めるのは小学高学年、大人になるまで買わない家庭も多かった。
デザインも大人の26インチ実用車を子供向けに24インチにサイズダウンしただけで魅力がない。キャラクターやアクセサリーを付けた子供専用車はまだ現れていなかった。
しかも小売価格は大人車の半額という市場慣習のため採算が悪い。総生産台数は自転車全体の20%にも満たず、廉価車専門メーカーが過半のシェアを占め、大手メーカーは力を入れていない。
しかし高度成長期に突入すると、第一次ベビーブームが爆発的に進行、子供にも金をかける風潮が始まっていた。この増加する子供を狙ったマーケティングはメーカー全体の課題であった。
そうした時代を背景に、宮田工業が創業80周年記念車と銘打って発売したピーターパンは大ヒットしていた。

狙いは、小さな16インチのバルーンタイヤを装着、“3才から乗れる自転車”を謳い文句に “幼児車”という新ジャンル創造にあった。
スペックも、安全な丸ハンドル・手を突っ込まないホイール・転倒防止の補助輪など幼児に適した専用部品を採用していた。
加えてミヤタの親会社松下電器も同様の幼児車ミニポピーを発売、これまたブリヂストンのポニーカートを凌ぐ勢いだった。
1960年代半ばに横並びの競争から抜け出し、ようやく完成車トップの地位を固めたばかりのブリヂストンは、2位ミヤタ・3位松下連合軍の仕掛けた子供車戦争により大きな危機を迎えていた……。
(3)
直ちに横芝は、社内関係者や社外専門家を集め新車の目的を説明した。
「子供車には大きな潜在需要があります。ミヤタは幼児を狙っているが、当社は幼児から小学生までを一つの市場と捉える大きなマーティングを展開する方針です。これにより子供車の年間需要を現在の100万台から200万台に倍増させるつもりです」
子供のライフスタイルに詳しい、こども調査研究所所長が疑問を呈した。
「子供の世界は複雑です。男子・女子の性別や幼児・児童・子供の3段階の年齢の違いによって商品が変わってくる。小学生でも低学年と高学年では違う。緻密な市場細分化戦略が必要、大変な投資が要りますよ……」
「こんどの新車はミヤタ追撃が目的、3才から小学低学年までの男の子に絞ります」
年長の技術課長が質問した。
「販売計画は?」
「初年度10万台、数年後に50万台」
「子供車は採算が悪い。赤字が増えるだけでは?」
「新車には高付加価値を付けて、大人車並みの価格に引き上げ利益商品にしたい」
「言うは簡単だが、野心的な計画だね!1車種で10万台も売れるの?」
これこそ横芝が待っていた質問だった。
「ピーターパンには弱点がある。確かに商品力はあるが宣伝力がない。販売店の店頭配置も十分ではない。宣伝すればもっと売れますよ」
横芝はここぞと力を入れる。
「当社はテレビの人気キャラクターを使って商品をつくり、商品力・宣伝力・販売力一体となるマーケティングを展開、一気にシェアを奪回したい。それには大規模の予算が必要、皆さんのご協力をお願いします……」
(4)
キャラクター探しが始まり、最有力候補は「仮面ライダー」だった。
1960年代終わりのウルトラマンから始まった怪獣ブームは、続いて登場した仮面ライダーによって大流行の兆しを見せていた。
仮面ライダーの愛車はサイクロン号というオートバイ。このイメージを投影した男子用子供車をつくればヒットするはずだ……。

しかし、玩具・書籍・菓子などのキャラクターグッズの価格は安い。3%のキャラクター使用料を小売価格に上乗せしてもさほど割高感はない。自転車のような高額商品では小売りが数千円も高くなる。それでも売れるか?しかも玩具化した自転車を消費者は受け入れないかもしれない。もし失敗したら……?
リスクは大きい。横芝は苦慮して自問自答する。
本来ならネーミングは“仮面ライダー”または“サイクロン”としたいところだが、失敗したらヘンテコリンな子供車が山のような在庫が残る。宣伝費や金型などの先行投資も無駄になる。
そのため仮面ライダーのイメージは付属品だけで表現して車体には表示しない。失敗した場合は付属品だけを外して、単にドレミとして売ればよい。
そこで子供車全体の基本ブランドを“ドレミ”、キャラクターの名前をサブブランドにすれば、車名は“ドレミ仮面ライダー”になる。キャラクターを替えてもドレミは続く……。

あとで考えれば情けない話だが、当時は失敗に備えて2段構えのブランド戦略を取ったのだった……。
(5)
最大の問題点は宣伝予算の捻出だった 。
ブリヂストンのテレビ宣伝は春需期に自転車全車種を売り出すセールスキャンペーンの告知スポットを入れる程度で、予算もわずか5~6千万円。
だが、効果を挙げるにはスポットでなく番組提供がよい。それには放映料だけでも数億円は必要。しかも特定車種の単独宣伝はやったことがなく、費用対効果から予算獲得は絶望的だ……。
しかしチャンスは向こうからやってきた 。
広告代理店を通して、71年から始まる仮面ライダーの新テレビ番組の提供スポンサーに1年間なれば、キャラクター使用料を無料になる提案があった。
当時のテレビ宣伝は必ずしも売り手市場ではなく、特に子供番組はスポンサーが玩具や菓子メーカーなどに限られていて、テレビ局も持て余し気味。初めての自転車スポンサーは大歓迎のはずだ。
しかも仮面ライダーの番組制作は関西を地盤とするMBS(現毎日放送)であった。当時のMBSは毎日新聞系であるにもかかわらず、東京のキー局はライバルの朝日新聞系NET(現テレビ朝日)と系列違いの全国ネットを組んでいた。
単独で新番組を制作したMBSは、スポンサー探しの営業責任も負っていた。
広告代理店の営業責任者に聞いた。
「関西にはスポンサー企業が少ない。MBSは当社との話をまとめたいのでは?」
「そう思います。子供時間帯のスポンサーにブリヂストンを獲得できれば、担当者の手柄になるでしょうね」
「では、1年契約でなく半年の2クール契約(1クールは週1回計13回)にできませんか?そうすれば番組提供料も半分で済む。半年後に延長して1年分にするからと強く交渉してください。もちろんキャラクター使用料は無料でね」
横芝はMBSがこの条件を飲むと確信していた。
わずか半年間の番組提供でキャラクター使用料が無料になると、とりあえずトップを説得しよう。ドレミ仮面ライダーが商品化されていれば半年では中止できない。騙すようだが、半年後に延長申請すれば了解せざるを得ない……。
(6)
ある日、玩具メーカーバンダイの若い社員が、突然来社した。
アポ無しで何だろうと訝しながら面会すると、バンダイで開発したカウリングや変身ベルトなどの仮面ライダーグッズを自転車店ルートで販売できないか、との売り込みであった。
丁重にお断りはしたが、横芝はますます仮面ライダー起用に自信を深めていた。
1972年ドレミ仮面ライダーシリーズ3車種(DM―3・DM―5・DM―7)が発売された。数字が示すように、それぞれ3才・5才・7才児をターゲットにして細かくデザインを変えていた。

DM-3のセールスポイントは、サイクロン号を真似たカウリング(風防)とパトカーをイメージしたブザー付き回転ランプ。大きな補助車輪も幼児に安全と評価が高かった。

DM-5とDM-7もそれぞれの年齢に適したスペックだった。
全国ネットのテレビ宣伝に乗ったドレミ仮面ライダーは、瞬く間に大ヒットとなった。
自転車店の店頭では、欲しがる子供が泣き叫んで、親が買ってくれるまでハンドルを離さない情景も、しばしば見かけられた。
小学生の間では、手放しや変身ポーズをとりながら自転車に乗る仮面ライダーごっこ、また身体を自転車の上に伸ばして走行するなどの自転車遊びが広く流行した。
テレビ番組のなかで“少年仮面ライダー隊”と呼ぶ自転車部隊を登場させ、同じ子供車を発売したこともあった。
当時の「テレビマガジン」誌はこう伝えている。
「ブリヂストンのドレミに乗り、バンダイの変身ベルトを付ければ、誰でもたちまち仮面ライダーに変身することが可能であった」
ドレミは爆発的に売れ続け、初年度30万台を超える大ヒットとなり、子供車総需要も200万台を超えた。
その実績から2クール以降のテレビ予算が認められたことは言うまでもない。
(7)
それから30年後、もはや仮面ライダーブームは終焉し人々が語ることも少なくなっていた。
ある日横芝は、東京台東のバンダイ本社を訪れ杉浦幸昌代表取締役会長と面会、初対面と思った二人は名刺を交換した。
用事が済み会社を出て、西日に輝く落成したばかりのガラス張りのバンダイビルを眺めていると、突然アッと気がついた。
いまや大企業に成長したバンダイのトップに上り詰めた初老の会長は、かつて横芝を訪ねて仮面ライダーグッズの売り込みにきたあの青年ではなかったかと。
過ぎ去った長い歳月は、あの時の仮面ライダーを巡る記憶さえも、忘却の彼方に押しやっていた……。