デザイン力で稼ぐ(3)
ジョルジェット・ジウジアーロ

彗星の如く現れ、20年間にわたって自転車史に光芒を放ったジュニアスポーツ車。その技術的遺産は?そして掉尾を飾った世界の自動車デザイナージョルジェット・ジウジアーロ。建築デザイナー黒川紀章。巨匠たちのサイクルデザイン物語。

(1)

 1982年ブリヂストンサイクル社長石井公一郎は、部下の企画部長横芝正志に言った。

 「おいおい、ジウジアーロとはね!スーパーカー自転車人気は、かれこれ10年も続いている。いまから間に合うのかね?新車ができたころには、ブームが終わっているんじゃないか……」

 「大丈夫です!自動車のF1人気まだまだ続きます。もし他社が撤退したら、需要を独占できます」

 石井は自動車タイヤ出身。カーデザイナージョルジェット・ジウジアーロのことはよく知っている。そのジウジアーロに自転車のデザインを依頼する提案だった。

 「それにしてもデザイン料が高いだろうね?新部品が増えて金型投資もかさむしね」」

 「高いことは高いですが、何とかなります。ヒット車になるほどには売れないでしょうが、少なくとも償却はできます。目的はデザイン力で自転車全体のイメージを高めることです……」

 さらに横芝は第二段階の構想を述べる。 

 「引き続きジウジアーロには、これまでにない斬新なシティサイクルをデザインしてもらいます。こちらが本命です」

  もともと石井は芸術的センスが抜群だ。うなずくと同時に、ジウジアーロプロジェクトが新しくスタートした……。

(2)

 1970~80年代、「フラッシャー自転車」、「スーパーカー自転車」、「電飾スポーツ車」と呼ばれて、一世を風靡したジュニアスポーツ車が登場した。

 当初はジュニア需要掘り起こしが目的だったが、そのころブームになった自動車のスーパーカーを模して、電飾ライトや変速機に様々な工夫を凝らし、世界に類のないジャンルのジュニアスポーツ車をつくりあげた。

 人口増が続く団塊世代の少年たちは夢中になった。思い思いの自転車にまたがり、互いに機能を自慢し合い、ジュニア需要創出戦略は成功した。

   1965年ごろ、ブリヂストンは大人車用に、フロントとテールランプを一つのダイナモで点灯して、乗り手を前後から照射する「ユニライトシステム」を開発。少年向け電飾ライトの源流になった。

 1968年日米富士がフラーシャー付きスポーツ車、「富士フラーシャー」を発売、これが電飾ジュニアスポーツの嚆矢とされている。

 それから15~6年間ブームは続いた。それには3つの段階があった。ブリヂストンを例に振り返る  

 ジュニアスポーツ第1弾は1969年に発売された。ブランドは、大人用「スプリンター」のジュニア版の位置付けになっていた。

(1969年:第1弾「スプリンター/ジュニア」5段変速 定価24.000円)

 特徴はフロントランプをツインにしたユニライトシステム。その後ツインランプは全メーカーの電装部品の定番になる。

 外装変速機は変速位置を表示するダイアル式、レバーは扱いやすいトップチューブに装着した「ダイアルレバー」

 楕円のフロントギア「オーバルギア」、「筒形タッチブザー」など。

 その後のジュニアスポーツ車の特徴の一つになる「セミドロップハンドル」は、通学仕様として禁止地区が多くあったため、このころは浅上がりハンドルを使用していた。

 いずれにしろ初期の段階では、差別化を図って多彩な新開発メカを搭載していたが、その方向性はまだ定まっていない

   1975年の第2弾では、開発を電装部品に絞り「アストロG」を発売した。

(1973年第2弾「アストロG」5段変速 定価57.000円)

 他社でもフラッシャー付きが一般的になっていたが、ランプが流れるように点滅するウィンカーが人気になり、単一電池を何本も入れるボックスが目立っていた。

 他にも前後ライト、ディスクブレーキ、トリアルタイヤなど新開発メカ満載だった。圧巻はトランシーバーや工具まで付き、価格は一気に跳ね上がった。

   1979年定番化していたジュニアスポーシリーズ「ヤングウェイ」のなかに新ブランド「モンテカルロ」を発売する。人気絶頂のスーパーカーイメージを商品化したもので、決定版としてベストセラーになった。

(1979年ヤングウェイ/モンテカルロ 5段変速 定価53.800円ステンレス仕様)

 最大の特徴は、レバー操作でダイナモの起動からフロントの「ツインリトラクタブルライト」の開閉までできる画期的なシステムだった。

(レーバー操作で作動するブリヂストン「リトライト」)

(3)

 話をジウジアーロに戻す  

 ジョルジェット・ジウジアーロはイタリアの著名なカー&工業デザイナー。“折り紙細工”と評された、直線とエッジの利いたデザインで知られていた。

 数々の名車を手掛けたのち、日本人宮島秀之たちとイタルデザイン社を設立。カメラなど幅広い工業製品のデザインを発表した。

 宮島は自動車関連の仕事を志し、日本のオートバイメーカーをスポンサーに欧州縦断ツーリング中、イタリアの元貴族の娘と恋に落ち、そのままジウジアーロの本拠地トリノに定住した伝説の持ち主である。

   横芝は工場スタッフやデザイナーを集めて言う。

 「デザイン案ができたので、近々打ち合わせに来日する。この機会にジウジアーロのデザイン力を学んで欲しい」

(試作車を検討する日米スタッフ/左端ジウジアーロ)

 1984年と翌5年、ジウジアーロモデルが2回に分けて発売された。想定通り一般マスコミにも持て囃され、モンテカルロシリーズの掉尾を飾る話題作になった。

(1985年モンテカルロ/ジウジアーロ第2弾 定価69.800円)
(手元スィッチ一つでウィンカー・ハザード・フォグランプ・パッシングができる)

(4)

 ジュニアスポーツは多彩な新機能や新部品開発を促し、その思想と技術はメーカーのレベルアップに貢献した。なかでも変速機の進展に大いに貢献した。

 ブリヂストンが開発した「シンクロメモリー」は、数字で変速位置が表示される“位置決め機構”により、初心者には難しい多段変速がクリック音とともに確実にでき、停車中に位置決めすればローでもセカンド発進でもできた。

(ブリヂストンの変速レバーとディレーラーが同調するシンクロメモリー)

 もともと外装変速機は微妙な手感覚で行うものとされ、それがマニアの誇りでもあった。ブリヂストンの変速位置決め機構は、ほとんど同時期に島野でも開発された。

 当初は重くてしかもコンソールボックスに入っていたため、子供だましのギミックな機構とされた。が、ブリヂストンはレバー方式にチェンジして高校生向けスポーツ車「ロードマン」に搭載、正確な変速機構としてセールスポイントになった。

 シマノもSISに発展、シフト表示もフライトデッキに進化、いまではマニアも初心者も広く使用している。

   ブレーキでもディスクブレーキやオイル(油圧)ブレーキが開発され、いまではレースで使われるほどに進化している。

 なお、ブリヂストンのダイネックスブレーキはシティサイクルに継続されていたが、2012年に40数年の幕を閉じている。

(5)

 ふたたび話は、ジウジアーロに戻る  

 モンテカルロ/ジウジアーロは話題を独占したものの、ジュニアスポーツ人気は次第に萎んでいった……。

 電池で動く複雑で大型のデジタル装備は敬遠され、シンプルな発電ランプと簡易な変速機を備えただけの、価格の安いスポーツ車になっていった。

 少年たちは、チョイスシステムが売物のロードマンや、シンプルなシティサイクル「カマキリ」に鞍替えしていった。

   横芝はスタッフに言う。

 「皆さんも知っての通り、ブーム終焉を見越して開発していた男女兼用のシティサイクルのデザインができたと、ジウジアーロから連絡があった」

 「特徴は何ですか?」

 「ジュニアスポーツと違って、自由にデザインしてもらった。とてもユニークな仕上がりだ。話題になること疑いなしだ」

 1985年「ブルゾン」と名付けられ、大々的にマスコミ発表会が行われ、話題を呼んだ。

(1985年シティサイクル「ブルゾン」定価69.800円)

 直線クロス(十字)フレームは単純化され、ハンドル・ポストは一体となって楽なハンドル操作と足元の空間を生んでいた。実用車ながらアルミの多用により重量は16kgだった。

 自転車の本場イタリアにも輸出され、さすがジウジアーロの作品だ、と評されたという。

(6)

 ある日横芝は、石井前社長に代わって新社長になった徳永徳一郎に言った。徳永はのちに自転車工業か理事長を務めるが、経理に明るい。

 「柳の下の3匹の泥鰌です。もう一丁、ジウジアーロでいきませんか?」

 「うーん、自転車はシンプルだけにジウジアーロといえ、そんなにグッドアイデアが続くものかね?それと、最近のキミの企画はイメージ戦略に偏ってないか?量販車にも力を入れてくれよな……」

 これまで徳永は、横芝の提案をほとんど無条件で賛成してくれていた。が、時代はバブル経済も終わりに近く、そろそろ採算が気になってきたようだ。

   それでも横芝は、こんどは量販車を企画する、と強引に予算を獲得、3度目のデザインを依頼した。

 だが、結果は無残だった。スケッチを見る限り3本のメインフレームなどアイデアは斬新だが、新部品の金型投資もかかり、とても量産量販には向かないデザインだった。

 「徳永社長の意見も当たっていたようだ」と内心思いながら、

 「ならば初期投資のあまり要らない企画を進めよう」と、こんどは黒川紀章にデザインを依頼した。

  黒川紀章は世界でも有名な建築家。そのころ新しくインダストリーデザインの世界への進出を目論んでいた。

  1989年、黒川の頭文字Kから「Kデザイン」とネーミングした、シンプルなシティサイクルを発売した。

(1989年ティサイクル「Kデザイン」定価55.800円)

   新発売のKデザインを市場が評価する時もなく、バブル経済が崩壊した。

 一転して自転車の価値感は下落、デザインを付加価値として稼ぐことは難しくなり、性能品質よりも低価格重視の使い捨ての消費財に代わっていった。それは自転車受難時代の始まりであった…… 。

1か月前