ドイツで生まれた始祖・足蹴り式自転車「ドライジーネ」。次いでフランスで第二世代の前輪ペダル駆動車「ミショー型」誕生。さらにイギリスで発明された第三世代の巨大前輪車「ペニーファージング(だるま車)」。独・仏・英3国による自転車王国の覇権争い。「自転車三国志(スリーキングダム)」最盛期を語る。
イギリスの天才ジェームズ・スターレイ
1830年ジェームズ・スターレイはイギリスの農民の家庭に生まれた。機械いじりが大好きで、家にある農機具の改良などに精を出す。15歳になると家を出て独立、イギリス中部の工業都市コベントリーに移り住む。
近所の人たちの時計や乳母車、家庭用品の修理をしながら生計をたてる。なかでもミシンの修理が得意で、足踏み式新型ミシンを考案し特許をとったりしていたが、やがてミシン会社に就職した。
2年ほど勤めるうち、ジェームズの技術の才能に目を付けた工場長ジョシュア・ターナーに誘われ、共同経営のミシン会社「コベントリー・ソーイング・マシン」を起業した。1863年33歳のときである。

経営が順調に進んでいたある日、ターナーの甥がフランス旅行に行き、土産に自転車を持ち帰った。
「これがミショー車の最新型ですよ」
「ほう!前輪ペダル駆動か!よくできているなあ……」
ジェームズがまだ少年だったころ、史上初の自転車ドライジーネがドイツから伝来、ホビーホースと呼ばれて人気になった。それ以来機械好きのジェームズは自転車にも関心を持っていた。
「それにしても重い!40キロ近いかな?乗り心地も悪い。もっと改良できるな……」
ジェームズは、自転車はミシンよりも将来性がある、と友人の技術者ウイリアム・ヒルマンと自転車会社「コベントリー・マシニススツ」(機械工たち)を設立した。のちに甥のジョン・ケンプ・スターレイも参加する。
卓越した能力を持つ、この3人の技術者により、イギリスは世界最強の自転車王国を築くことになる。
巨大前輪「ペニーファージング」現る
ある日、ジェームズはヒルマンに言った。
「もっと前輪を大きくしたいな。スピードを出したいんだ。大きいと、クッション性もよくなるしね」
直付けペダルを踏んで走る前輪駆動車は、ペダル1回転で前輪が1回転する。踏力は要るが、前輪を大きくすればするほど速度が増す。逆に後輪は小さくして、バランスをとる。
1870年、ジェームズは自転車史に残る画期的な自転車を発表した。

その名は「アリエル」(空気の精霊)。ミショー車からの継承技術に、ジェームズの才能が生んだ多くの新考案が加わっていた。
前輪126センチ・後輪35センチ
細い鋼鉄線のスポークホイール
空洞の肉薄鋼管フレーム
軸をセンターにするステアリング
ペダル位置可変式クランク
車軸ベアリング
スピード変速ギア
ソリッドゴムタイヤ
タイヤを直接押さえるブレーキ
ゴムペダル
重量わずか20kg。クッション性もよい。スピードが倍加、時速20kmで走れた。
当初の自転車はオール木材製。のちには鍛冶職人によって整形された鉄材がもちいられていた。このアリエルには、手作業では困難な工業生産された細い鋼鉄線スポークや肉薄鋼管、さらに加硫ゴム製タイヤなどが採用されていた。
これらの技術革新なしでは、重くて固い巨大車輪の高速走行や乗り心地のよさは実現不可能であった。
アリエルは近代的な製鉄と金属加工技術を設計製造に取り入れたことで、自転車史上のマイルストーンとなった。
これ以降、前輪が大きく後輪が小さいタイプの自転車を、イギリス貨幣のペニー(=1ペンス)とファージング(=1/4ペンス)のサイズ違いになぞらえ、「ペニーファージング」と呼んだ。
アメリカでは、当時ペニーファージングが広く普及していたので、“普通型”を意味する「オーディナリー型」と名付けられた。日本では形状から「だるま車」と呼んだが、いずれもいまではあまり使われていない。
ロンドンを闊歩するのっぽ車
ジェームズとヒルマンは、アリエルに乗って、ロンドン~コベントリー間をわずか1日で走って評判になった。その噂は広がり、アリエルは冒険好きの中流階級の人気を集めて大ヒットした。
たちまち「ボーンシェーカー」(骨揺すり)と呼ばれて、乗り心地の悪いミショー型は駆逐され、市場はペニーファージングの独壇場になった。
乗り手は、見晴らしのよい高さにあるサドルに跨り、ハイスピードで風を切る爽快感に感動した。
各地にサイクリングクラブが設立され、会則がつくられた。同じデザインのユニフォームを着て、道路の穴ぼこや危険な坂道を仲間に知らせながら集団走行した。

競走が盛んになると、勝つために前輪はますます大きくなる。直径140cmを超え、後方からステップで乗るようになった。
「大きな車輪は、耐久性や衝撃吸収性が悪いなあ……ぶつかると危険だなあ……」
ジェームズとヒルマンは解決策を考えた。
「スポークを交差させて組んだらどうだろうか?過重が分散され強度がずっと増す。トルクの伝達性もよくなるはずだ」
今日でも自動車や航空機に使われているタンジェント・スポークを考案した。軽量化やクッション性に加えて、強度が増したことが画期的だった。
高級なペニーファージングは、重量10kg以下になった。現代のロードレーサーに遜色ないほど、軽くてスピードも出た。
こうしてロンドンを5万台の「のっぽ車」が闊歩、直径2メートル半の巨大車輪さえ登場した。折り畳み機構付きも現れた。
三輪自転車でも大成功
「うーん、三輪車もいいなあ。二輪車に乗れない人でも安全に乗れる。停車もできるし、同乗者と談笑しながらのんびり走れる。荷物も運べる。改良すれば二輪車より売れるかも知れないな……」
もともと三輪自転車の発想は、三輪馬車に起源がある。自転車の発明者ドライス男爵は二輪のドライジーネ以前に三輪自転車を開発。ミショーも三輪車を発売している。

事業家の才能もあるジェームスは、三輪車にも力を入れ、新考案を取り入れた新型を次々に発売した。三輪車開発については他の意見を聞かなかったという。
曲がるとき2つの車輪が違うスピードで回転するバランスギア(差動歯車)、チェーンによる大径駆動輪への力の伝導、前輪はレバー操作でできるなど、老人や女性でもこれまでより格段に乗りやすく、売れ行きは上々であった。
なかでも「ロイヤル・サルボ」はイギリス王室にも納入され、貴族や上流階級の乗物として評価された。このあたりは、ジェームズは政治家でもあった。1881年51歳の若さで不帰の人となった。
83年のスターレイ社展示会の内訳は三輪車が多かった。
二輪車 233台
三輪車 289台

(注)三輪車については「自転車物語WEB」の「角田安正・雑記帖」のなかの「三輪自転車の話」(1)を併せお読みください。
三輪車の黄金期は1880年代を挟むおよそ30年間。前二輪・後二輪、一人乗り・二人乗りなど大きさや形状は様々、用途も配達専用や競争用も開発された。四輪以上の多輪車もあり、正に発明狂時代の産物でもあった……。
三輪自転車の話(1) – 自転車物語Web (jitenshamonogatari.com)
恐竜の終えん
ペニーファージングや三輪車により、自転車需要はどんどん拡大した。
500社もの自転車会社が生まれ、年間20万台を生産。自転車工業はフランスからお株を奪って、イギリス近代産業の一分野になった。
それを創出した天才ジェームズ・スターレイは「イギリス自転車工業の父」と呼ばれている。

19世紀後半、クラブサイクリングだけでなく、自転車レースも盛んに行われた。

だが競走が盛んになればなるほど、安全より速度が優先された。走行中につまづくと、身の丈ほどの前輪から前のめりに落車し大怪我をする。ブレーキはあったが実用性に乏しい。
やがてスピードが危険視され、レース禁止運動が起こり、路上競走ができなくなる。
ペニーファージングは、あたかも恐竜が巨大化して滅亡したかのように、19世紀末には終えんのときを迎えようとしていた。
市場からは、スピードと安全の両立が求められ、それに応えて第四世代のチェーン駆動車「安全型」登場が間近かであった……。
(お断り)このたび「新撰自転車物語―歴史の拾い読み―」は「自転車・国盗り物語」に改題いたしました。引き続きご愛読お願いします。