2人のピエール/ペダル車現る

始祖ドライジーネから40年。舞台はドイツからフランスに。第二世代のペダル車出現。栄光に輝く発明者は誰か?世界初の量産車「ミショー型」にまつわる虚実のエピソード。その歴史を探る……。

ドライジーネは乗り心地が悪い

 1861年、パリの凱旋門近くの小さな工場  

「ピエールはいるかい?」

 近くに住む帽子職人が、1台の足蹴り式自転車ドライジーネを押して入ってきた。

「こいつの具合が悪いんだ。ちょっとみてくれないか……」

 ピエール・ミショーは、東フランスの小工業都市バルデュクの貧乏家庭に生まれた。14歳から錠前職人として地方を転々としたのちパリに移住、馬具作りの技術を身に着けた。今では息子たちと、街の便利屋のような鍛冶屋を営んでいる。

(ピエール・ミショーは錠前職人だった)

ピエールの長男アーネストが、ドライジーネを受け取り点検した。

「うーん、厄介だな。2~3日はかかりますよ」

 次の日、親子2人がかりでどうにか修理した。

「おい、アーネスト。こいつの調子を見たいのだ。家の回りを走ってみてくれ」

 ひと走りしてきた息子が言う。

「うまく修理できてるよ。でも、足蹴り式は力が要って疲れるな。乗り心地も悪いねえ。もっと改良したいな……」

足が地面から離れた!
ペダル車誕生

 自転車の始祖ドライジーネがドイツで発明されてから40年。多少の進歩はしたが、地面を足で蹴って進むことには変わりがない。

 息子のアーネストが父親に提案した。

「ドライジーネは下り坂でスピードが出るから足を上げていたんだ。でも、足が邪魔になってね。足を乗せる棒が前にあったらいいな」

「そういえば、そんなものを付けたドライジーネをどこかで見たなあ。オレがやるからには、新しい工夫を加えたいな」

 作業場を見回していたピエールは、片隅に転がっている挽き臼に目をやった。

   突然、テコの原理が閃いた。

「そうだ!前輪の真中に足乗せ棒をつけ、それを踏んで前輪を回転させるのだ!」

 息子もすぐ理解して答える。

「その棒をクランクのように曲げ、先っぽに足で踏む小さな板を付ける。片足を踏み見込めば、車輪が廻って反対側の足が上がる。足乗せと回転が同時にできる。こりゃ、一石二鳥だねえ」

 さっそく父親が図面を引き、息子が工作して試作車ができあがった。

「アーネスト、乗ってみてくれ。臼を廻す要領だよ」

 試乗したがすぐ横転した。足が地面から離れているペダル車は、回転が止まると横に倒れる。両足で跨るドライジーネより、バランスが崩れやすい。

「どうやら、ステアリング(操縦)だけでなく、フロントフォークの角度とも関係がありそうだ」と工夫を重ね、直進安定性のよいキャスター角(フロントフォークと地面の角度)をみつけた。

 アーネストは、力が要らずスピードが速く、体が空間に浮き乗車感が楽しいペダル車が気に入り、所かまわず乗り回す……。

   世界初のペダル付きベロシペード「ミシュー型」の誕生だった。

(ミシュー親子が考案した前輪ペダル車「ミショー型」)
(ペダル車を前にした息子のアーネスト・ミショー)

もう一人の発明者ピエール・ラルマン

 時代が熟成すると、同じ時期に同じ発想をする人間が複数現れても不思議はない。ドイツのカール・ベンツとゴットリーブ・ダイムラーは、同じ地域に住みながらほとんど同時期にそれぞれ別々に、ガソリンエンジンを発明している。生涯2人は面識がなかったという……。

   フランスのナンシーに、ピエール・ラルマンという19才の乳母車職人がいた。ミショー型の発明より1年遅れの1862年、独自で工夫を重ね、前輪ペダル車を開発した。

(ピエール・ラルマンとラルマンの発明したペダル車)

 翌63年、ラルマンは自分の考案したペダル車に乗ってパリに行き、たまたまオリバー兄弟と知り会った。

 オリバー兄弟はリヨンで化学工場を営む資産家の息子。2人ともパリのエンジニア養成の超エリート校の学生だった。

 兄弟はメカ好きで、とりわけ自転車に興味を持っていた。学校帰りにミショーの工場に出入りして、親子を相手に木製スポークの軽量化など技術論をしばしば戦わせていた。

 兄弟はラルマンに言った。

「私の知り合いに、ラルマンさんと同じファーストネームのピエール・ミショーという工場主がいて、同じようなペダル車を生産しています。よかったら紹介しますよ」

 そのころミショーの工場では、発明した1861年の生産は2台だけだったが、翌62年には142台と急伸していた。しかも小売価格は1台500~625フラン(今日の日本円推定50~60万円)と高額であり、ミショー親子は更なる拡大意欲に燃えていた。

 オリバー兄弟につれられ、ラルマンは自分の発明したペダル車をミショーに見せた。

 ミショーは「何だ、オレのとそっくりだ!」と内心驚く。

「ラルマンさん、これはキミ一人で考えたの?」

「そうです。私の発明です!」とラルマンは胸を張って答える。

 ミショーはしばらく考えたのち、ラルマンを誘った。

「よかったら、オレの工場の技師にならないか?」

   これが、のちに対立する2人のピエールの最初の出会いであった。

ラルマンアメリカに渡る

 ペダル車の販売は拡大を続け、ミショーは大儲けした。

 一方ラルマンは、ペダルの改良や新車開発に協力していたが、使用人にすぎないラルマンには報酬が少なかった。

 ペダルの発明者のつもりのラルマンは、腹を立て喧嘩となり、会社を辞めて一旗揚げようと、新大陸アメリカ・コネチカットに移住した。

 1866年に自分の考案したペダル車のアメリカ特許を取得。クランクペダルとフレーム上部に細長い鉄板をバネとしてのせサドルを付けたことが特許であった。

(ピエール・ラルマンのアメリカ特許申請図)

 それを基に、地元実業家の出資を得て工場生産を開始した。

 ところが、アメリカの自転車需要はまだ少なく、販売不振から事業は失敗。やむなく特許をアメリカ人アルバート・ホープに売却、夢破れてわずか3年で帰国した。 

 その後はパリで細々と、ラルマン型ペダル車を製造していた。

   ところがヨーロッパのペダル車の流行が伝わると、アメリカでも大ブームになった。

 アメリカのトップ企業に成長していたホープの「コロンビア自転車」が、特許問題で訴訟になった。

 ラルマンはホープの依頼で再びアメリカに行き、証人として法廷に立ったのち、ホープの工場で技師として働いた。

 ラルマンは「オレは運がわるいなあ。もうちょっと頑張っていたらなあ……」とぼやきながら、47歳のときボストンで亡くなった。

 死ぬまで「ペダル車はオレの発明だった。ミショーに横取りされた」と言い続けたという。

 後世の史家は、曲線フレームが特徴の前期ミショー型を「ラルマンタイプ」と呼び、その名を今に残している。

ミショー型は世界最初の量産車

 ペダル車の登場によって、自転車は進歩を続けていた  

 部品が木から鉄に換わり、車輪にはゴムが巻かれた。前輪は大きくなってスピードを増した。鉄製フレームは空洞になって軽くなり、弾力性のあるサドルも開発され、ハンドル上で操作できる鉄ブレーキが後輪に付けられ、乗り心地は向上した。

 それでも皮肉屋のイギリス人は、石畳の道で背骨がガタガタになるほどゆれるミショー型を、「ボーンシェーカー(骨ゆすり)」と呼んだ。

 スポーツ性が高くなると、街中の障害レースから長距離ロードレースまで、新しい自転車競技が始まった。

(1860年代のミショー車障害レース)

 1968年パリで世界初の公式スピードレースが行われた。69年には世界初の長距離ロードレースがパリ~ルアン間134kmで開催され、レースは定着していった。

 スポーツ用需要が増加すると、パリを中心に200社もの完成車と部品企業が生まれた。造船所などの大企業も製造を開始、自転車は工業製品としてフランスの一大産業になった。

 ミショー工場の65年生産は400台とうなぎ登り。パリ万国博のあった67年には1.000台、工員300人を超す大企業になった。三輪車もつくられ、ミシュー型は世界で初めての大量生産車となった。

   だが、ミショーはまだ48才の働き盛り。

「もっと事業を拡張したい。オリバー、出資してくれないか?」

 オリバー兄弟は実家の資金援助を得て、68年ミショーと共同会社「ミショー&カンパニー」を設立した。 

 ところが、ミショーと社主になったオリバー兄弟は利益配分でもめ、ミショーは自転車事業から身を引く条件で、オリバー兄弟に会社を20万フランで売却した。

 この条件にもかかわらず、しばらくするとミショーが別の新会社を設立したため、オリバー兄弟と裁判沙汰になり、相互に経済的損失を蒙のった。

 1870年普仏戦争が勃発、ナポレオン三世のフランスは敗北し、戦争の煽りで自転車ブームが冷め、ミショーもオリバー兄弟の会社もあえなく倒産した。 

 ミショーは貧窮のなか70歳で死去、フランス自転車産業の栄光も消滅した。

 今日、ミショーは「フランス自転車工業の父」とか「ペダル王」と呼ばれ、ラルマンは「アメリカ現代自転車の父」として「アメリカ自転車殿堂」入りを果たしている。

(フランス・バルデュクにあるミショー父子の顕彰碑)
(アメリカ・ニューヘイブンにあるラルマンの記念碑)

   ペダル発明者については異説もある。2人のピエールより6~7年早い1854年ごろ、ドイツの楽器修理人フィリップ・モーリッツ・フィッシャーがペダル車を発明した記録があるという。

(フィッシャーの記念碑 中央にペダル車が刻まれている)

   謎に満ちた自転車史はまことに興味深い……。

鑑定価格は120万円

 時が経ち、2011年。わが国の古美術品鑑定で人気のテレビ番組「なんでも鑑定団」に、ドライジーネとともに祖父が残したというアンティーク・ミショー車が出品された。

 中島誠之助たち鑑定人がつけた価格は、ドライジーネの60万円より高い120万円。奇しくもそれは、ミショー車生誕150年のアニバーサリー・イヤーのことだった……。              

3週間前