デザイン力で稼ぐ(1)
画伯の描いた女性車

起死回生の女性需要喚起策。軽量車の差別化戦略は?自転車はデザインで売れるか?続々登場する国内外有名デザイナー。その嚆矢となった日本画の巨匠小泉淳作の思い出を語る。
 
(1)
 
 2001年夏、すでに現役を退いていたブリヂストンサイクル元企画部長横芝正志は、北海道旅行に出かけた。
 
 旅の目的の一つは、帯広に滞在して天井壁画を描いている小泉淳作画伯の陣中見舞いである。なお、帯広には六花亭製菓が運営する「小泉淳作美術館」がある
 
 製作中の天井壁画はとてつもなく大きく108畳もあった。地元中学校の体育館の広い床一面に描きかけの絵が広がっている。
 
 「横芝さん、その絵の龍は大きすぎてよくわからないだろう。中二階に登って上から龍を見てごらん。天井壁画を下から見上げるつもりでね」
 
 横芝が登ると、小泉は70歳半ばと思えない張りのある大きな声で説明した。
 
 「龍の前足指の爪が5本あるだろう?“五爪(ごつめ)の龍”というそうだ。古代中国で皇帝だけが用いた最高位の龍だ。完成したら、京都の建仁寺に収めることになっている」(注)五爪は“ごそう”ともいう
 
 「去年の鎌倉建長寺の “雲龍図”に続いて、また大作ですね……」
 
 

 (京都建仁寺の創建800年記念天井壁画「双龍図」)

その夜、横芝は小泉と昔話に耽った。

   自然と話題は自転車になり、小泉はしみじみと言う。

 「あのころ、自転車のデザインが嫌いだった。スポンサーに気を遣うのも嫌でね……」

(2)

 北海道から帰京した横芝は、書棚から1冊の本を探し出した。

   題名は「アトリエの窓から」

 おもむろに表紙を開くと、墨痕あざやかに「横芝正志様 小泉淳作」とサインがある。最近いただいた小泉のエッセイ集で、まだ読了していない。

(小泉淳作著「アトリエの窓から」講談社刊)

 早速、ページをめくる。

   「売れる絵売れない絵」という見出しがあり、画家を志した若き日の苦闘が述べられている。

 『その頃は戦後の経済がようやく復興を始めた時で、商業デザインの分野が盛んになってきた。だが、商業デザイナーの数が少なかったせいもあり、(略)あちこちの会社から仕事を貰って生計を立てるフリーデザイナーになった。明治製菓の菓子のパッケージのデザインやらブリヂストンの自転車まで、金になることはなんでもやった。』

 『どうもこの仕事が好きでなく、そして案外やれば出来るのだが、イヤでイヤで何とかしてこの商売から足を洗いたいものだと考えていた。』

 『デザインというものはつまりスポンサーというものがあってその要求にどうやって合わせるかということで、その中でいかに自分を生かすかという可能性が僅かにあるというだけだったから、私の性に全く合わなかった。』

   横芝は独りでうなずく。

 そうか!そうだったのか!商業デザインがイヤだったのだ。固定化され自由度の少ない自転車をデザインすることは、独創性を重んじる心に向かなかったのだ。

 それにしては、いい仕事だった。あの「サブリナ」は、女性車に一時代を築いたものだった……。

(3)

 戦後の自転車は頑丈な実用車一点張り。男女兼用車もあったが、主に男性が運搬や移動に使う一家に一台の世帯財だった。

 そのためカラーはほとんどが黒一色。高級車にはフレームと泥よけに、ごてごてと金線が引いてあり、“仏壇のようだ”とさえ陰口されていた。たまに色目の違う地味なダークカラーがあっても、とてもデザインと呼べるレベルではなかった。

 やがて核家族化により住宅が郊外に広がると、主婦の買物や女学生の通学などの個人需要が増加、新しい自転車が求められた。とはいえ、新車種や新部品の開発にはコストがかかる。女性車と銘打っても、実用車仕様がほとんどであった。

(1955年丸石50周年記念婦人車)

 こうした状況のなか、大手自転車メーカーは女性需要喚起のため、実用車だけでなく“軽量車”と呼ぶ、軽快車・ミニサイクル・スポーツ車の開発を始めた。

 メーカー各社は新機能部品の開発や新しいデザインに力を入れ、社外デザイナーの起用もした。

 例えば、丸石は、日本の工業デザインの草分け「G・Kインダストリアルデザイン研究所」に新しい自転車のデザインを委託した。

   ようやく自転車にも、デザイン重視の時代が到来しつつあった……。

(4)

 そのころ小泉淳作は、展示会に出品するなど画家の道を志しながら、商業デザイナーとして生計を立てていた。

 小泉は政治家小泉策太郎の七男に生まれた。慶応義塾幼稚舎から慶応義塾大学文学部予科に進み、美術を学ぶために東京美術学校(現・東京芸術大学)に転じた経歴である。

 たまたま幼稚舎で1年上の石井公一郎が、自転車部門を持つブリヂストンタイヤに勤務していた。その縁で自転車のデザインをすることになる。のちに石井公一郎はタイヤから分離したブリヂストンサイクルの社長になるが、姉のシャンソン歌手石井好子ともども生涯小泉と交友を続けた。

   ブリヂストンの委嘱を受けた小泉は、工場の技術部隊にデザインを指導した。横芝はマーケティング担当として、折に触れ小泉と意見を交わすようになる。

 小泉は眼光鋭く精気に溢れ、弟の俳優小泉博に似た好男子。デザインツールとなる鉛筆・絵具・用紙さえ乏しい時代に、サバサバした口調で技術者たちにデザインの重要性を啓蒙した。

(5)

 そうした年月のなかから生まれた女性専用軽快車が「サブリナ」である。

 車名は、当時の人気女優オードリー・ヘップバーン主演の映画「麗しのサブリナ」に由来する。

(1966年女性軽快車「サブリナ」21.800円)
 

 サブリナは、女性が乗りやすく安全で使い勝手が良いように設計され、独創的な部品がいくつも装着されていた。

 50年後の今日では当たり前のようだが、当時は斬新で画期的なアイデアであった。

   それまでの重厚な実用車仕様と異なり、スプリングサドル・ドレスガード・アルミ小型発電ランプ・リフレクター付ペダル・WOタイヤなどを装着。極めつけは、新考案の「布製バッグ付き折りたたみ式フロントキャリア」だった。

(①~④と折りたためば多様に使える)

 車体のデザインは、赤いワインカラーにコーディネイトされ、センターのメッキ上パイプの輝きが全体を引き締めていた。カラー編成は「ゴールドワイン」と名付けた1色だけで、デザイナーの自信がうかがわれる。

   1966年サブリナは発売されるとたちまち大ヒット。女性軽快車の需要が急増して、サブリナは一車種だけの量販記録を達成した。

 サブリナの大ヒット以来、日本の女性軽快車には「前カゴ」が標準仕様になっている。また80年代半ばまでは、高級女性軽快車「ロージー」のように、前カゴに入れる「バッグ」が定番になっていた。

(1980年女性軽快車「ロージー」ステンレス仕様 前カゴ・バッグ付き 49.800円)

   サブリナは女性軽快車の元祖になった。

(6)

 70年代になると新製品開発やモデルチェンジが盛んになり、ブリヂストンは本格的にデザイン部門を新設した。

 常時6~7人の社員スタッフがカラーやマークだけでなく、完成車や部品のインダストリーデザインを担当した。次第に小泉淳作への相談もなくなっていった……。

 一方小泉も、本職の絵の世界で、徐々に頭角を現わしていた。

   小泉のエッセイ集「アトリエの窓から」をめくってみる。

 『趣味で始めた陶芸が、近所の奥さん達に売れるようになった。その頃は少しは収入源になってきた本職の絵と合わせれば、何とか食えるようになってきた。「これでもう見込みがついた、万歳」と大声あげて、デザインの机や道具を一切捨ててしまったのが四十八歳の時であった。』

 『本当に絵だけでオマンマが食えるようになったのは、それから十年後の五十九歳の頃である。考えてみれば、絵描きとしてはずいぶん奥手であったものだ。』

   ブリヂストンとの関係はなくなったが、横芝との交友は続いていた。

 1969年45歳になった小泉が初の個展を開いて以来、横芝は何度も画展に足を運んだ。たまに食事をともにすると、小泉は酒を飲みながら蘊蓄を傾けた。

 「酒は“越の寒梅”の昔の二級酒が一番いい。ぬる燗に湯豆腐でね。いまどきの大吟醸は好みでないよ……」

 年月を経るうちに、小泉は独自の水墨画で不動の地位を築き、70歳半ばからは壁画や襖絵に挑戦した。まさに大器晩成の巨匠であった。

   2012年マスコミは 「日本画家の小泉淳作さん死去」と、その死を報じた。87歳だった。

 『……40歳を過ぎて画壇を遠ざかり、孤高の画家と評された。50代後半になって水墨画に開眼し、独自の世界を開いた。鎌倉の建長寺、京都の建仁寺に天井画を制作。東大寺本坊のふすま絵を2010年に完成させた。』(12年1月9日付け読売新聞) 

   横芝は正月なると、毎年いただいた10数枚の古い年賀状を取り出す。そこに書かれた小泉の力強い墨字を眺めながら、いまでは知る人も少なくなった“画伯の描いた自転車”のことを思い出す……。

(小泉淳作画伯の年賀状の一つ「悠然」)

1か月前