1817 始祖誕生

 新連載第2回。神話や伝説に彩られた多くの起源説。そのなかから1817年、自転車の始祖が姿を現した。初めて見る奇抜な木づくりの二輪車。市民権を得られるか?自転車史の原点に立ち戻り、ドライス男爵とドライジーネの軌跡を辿る。

ドライス男爵の生い立ち

 「カール・フリードリッヒ・クリスティアン・ルードヴィッヒ・ドライス・フォン・ザウアブロン」  さらに爵位バロン(男爵)がつく。落語に出てくる「寿限無・寿限無・五劫の摺り切れ……」も顔負けの長い名前である。

   これが通称“ドライス男爵”の正式な呼び方だった。

 ドライスは、1785年ドイツ南西部バーデン大公国カールスルーエの由緒ある貴族の家系に生まれた。父は宮廷行政官、名付け親はバーデン大公カール・フリードリッヒ、かなりの名門の出である。

 秀でた額に大きな眼、頭でっかちで小太りな体つき。いかにも何かを考え出しそうな悪戯好きの秀才の印象を与えていた。

(ドライス男爵の肖像画)

 地元の林産学校からハイデルベルグ大学に進み、数学・物理学・土木工学・農学など多くを学び、該博な科学知識を身につける。

 卒業するとバーデンの森林管理官になり、広大な国有林を馬に乗って巡回した。

 「馬は餌が要る。世話もやける。しかし馬車は大きすぎる。人間の力で動く、手軽な乗物をつくりたいな」と馬や馬車に替わる簡便な移動手段を考える。

 ドライスには発明の才能があった。仕事の傍ら自動楽譜タイプライターを考案して、特許を取っていた。

   何かがつくれるはずだ!

ドライジーネ走る

 最初は馬車をベースに、足蹴りで進む三輪や四輪車をつくった。特許も取ったが、大きく、重く、誰にも相手にされない。ならばと、馬をイメージして車輪を縦に並べた二輪車をつくった。

(オール木製の二輪車「ドライジーネ」重量45kg)

 真ん中の台(サドル)に跨り、両足で地面を蹴ると、取りまわしはよい。だが、前に進むとすぐ横転する。何回乗っても同じだ。

   突然、閃いた。

「そうだ!ハンドルをつけて、前輪と後輪を別々に動かすのだ!」

 ステアリングでバランスをとる。  これは数千年もの間、人類が気づかなかった、まさにコロンブスの卵だった。

(足蹴りで進みハンドルでバランスをとる)

 この「ラウフマシーネ」(走る機械)は、「ドライジーネ」と呼ばれるようになる。ドイツ語で「手押し車」の意味だが、ドライスの名前に由来するともいわれている。ドライス32歳のときだった。

   ドライジーネこそ自転車の始祖であり、1817年はヨーロッパ自転車史のはじまりだった。

馬車と競争する

 いつの時代でも、新奇なものや先端を行くものは、異端視され、無視され、嘲笑される……。

 当時の市街路は石ころだらけのでこぼこ道、夏は埃っぽく雨が降るとぬかるむ。道幅は狭く、馬車と人がぶつかりそうに往来する。そのなかを、ごつごつ走る足蹴りドライジーネは、乗って楽しいというよりも苦しそうに見える。とても評判が悪い。

   ドライスはアイデアマンだ。誰も見たことがない奇抜な二輪車を知らしめるためにデモンストレーションを企画、当局と交渉した

 「何としても、ドライジーネと駅馬車の競走を実現させていただきたい」とドライスは食い下がる。

 交渉相手のバーデン国の内務大臣は、

 「こんなヘンテコな木の乗物なんてばかばかしい。そもそもマンハイムとキール間は50kmもある。駅馬車の勝ちに決まっているではないか」と内心思っている。なかなか「うん」とは言わない。

 それでも大臣は、しつこく繰り返されるドライスの頼みに辟易して、というよりも、ドライスの名付け親の故フリードリッヒ大公の未亡人に配慮して、

 「わかった。貴公がそこまで頼むなら競走を許可しよう」

 喜んで退出するドライスの後ろ姿を見て、大臣はいたずらを思いつく。

 「ちょっと待て!ひとつ賭をしようではないか?駅馬車は16時間で走っている。それより速かったら貴公の勝ちだ」 

   結果はドライスの圧勝。駅馬車の1/4の4時間、時速12kmで走破した。

 沿道でドライジーネを見た人々の口コミ効果は抜群だった。地元の新聞もニュースに取り上げ、馬車より速い機械の馬の話題で持ちきりとなった。

 噂はドイツにとどまらず、隣国フランスに拡がっていった……。

初の公開試乗会

 ドライスは宣伝の重要性も心得ていた。

 翌1818年、ドライジーネのフランス初公開試乗会が、パリ・リュクサンブール公園で開催された。有料にも関わらず、早朝から3000人もの大観衆が詰めかけていた。

(パリのドライジーネ試乗会)

 人々が見つめるなか、フランスの代理人ガルサンがドライジーネに乗った。が、前夜降った雨のせいで地面が柔らかく、触れ込みほどのスピードが出ない。

 「何だ!子供にも負けるじゃないか!」

  観衆は馬鹿にしてはやし立てた。

 「ちょっと、ワシにも乗せてくれ」

 一人の飛び込み客は、数メートルで転倒した。結局、試乗会は大失敗、ドライジーネは物笑いの種になった。

 しかし、この失敗は失敗ではなかった  

 パリの主要新聞はこの話題をこぞって記事にした。

 紳士がドライジーネに跨った戯画も発行され、劇場では「レ・ベロシペード、あるいはドライジーネを拝借」と題する風刺劇を30回も開催した。

(ドライジーネの戯画)

 ガルサンは、祭りなどのイベントでドライジーネを貸し出した。レンタサイクルの元祖である。

 こんな繰り返しの中で、自転車はヨーロッパの国々に急速に知られていった……。

ドライスは戦略家

 馬車競争や試乗会に続き、DM作戦を展開した  

 社会の導者的立場の貴族・将軍・政治家などに顧客を絞り込み、「手軽で楽しく全身運動ができる」と、速く走れるだけでなく、健康づくりもテーマに掲げた。

 自家用馬車の持ち主には「馬の餌代も、蹄鉄も要らず、金がかからない」と宣伝をした。

 また「自転車練習所」を開き、足蹴り式で乗るコツを教えた。

   ドライスのマーケティングにより、自転車は金と暇のある上流社会の贅沢で奇抜な遊具と認められ、ステイタスシンボルとして持て囃される。

 人気が高まると、ヨーロッパの国々でいくつものドライジーネ製造希望者が現れた。

 ドライスは特許を取得、使用権を認めた者だけに、車体につける銀製プレートを有料で交付した。いわば、キャラクターライセンスビジネスのはしりである。

ドライジーネ海を渡る

 流行はイギリスに飛び火、ドライジーネはドーバー海峡を渡りロンドンに姿を現した。

   ロンドンの馬車製造業者デニス・ジョンソンは、フレームを木製から鉄製に替え強度を増した新車を開発、「ホビーホース」とか「ダンディーホース」と呼ばれた。

 またロングスカートの女性が乗りやすいように、重量32kgの女性用低床フレーム車も開発した。

 ジョンソンの工場は、当時としては大量とされる年間400台を製造して「世界最初の自転車工場」になった。


(ジョンソンの女性用低床ホビーホース)

 人気の反面、批判や規制も多かった  

 「ホビーホースは日常生活には無縁なもの、がらくただ」とイギリスの有名な詩人ジョン・キーツは評した。

 ロンドン警視庁は、自転車競走は危険だ、と競技場を閉鎖した。

 ヨーロッパの多くの大都市で、ドライジーネの公道走行が禁止された。

バーデンの発明王

 ドライスはマンハイムにドライジーネ製造工場を建設。経営の傍ら、いくつもの発明に明け暮れた。

 16文字速記用タイプライター(「速記ピアノ」と名付ける)・潜望鏡・代数学の二進法(コンピュータ技術の祖先)などを考案した。

 発明の一つにペダルを付けた「ドリー」という鉄道修理用車があった。

 「何故ドライスはドリーのペダルをドライジーネに付けなかったのか?とても不思議だ。もしそうしていたら、世界最初のペダル付き自転車の発明になったはず」と後世の史家は伝えている。

   確かに1839年、イギリスの鍛冶屋マクミランがペダル式の鉄製自転車を試作して “足が地面を離れた最初の自転車”として歴史に名をとどめている。

 これは蒸気機関車の原理を応用して、ペダルを踏んで後輪を回転させる仕組みであった。

(マクミランのペダル付き自転車)

舞台は暗転した

 発明と事業の才能とは異なるもの。放漫経営の謗りは免がれず、ドライジーネの工場経営は悪化していった。特許料を払わない模倣車が次々に現れ、提訴したくも金がない。数々の発明に費やした資金も回収できず、工場を手放し、親譲りの財産も底をつく。

   1848年バーデン革命が起こった。ドライスは市民革命を支持して貴族特権を放棄した。

 ところが革命は失敗。全財産を没収され、恩給もなく、精神病者にされて“狂った男爵”とさえ呼ばれ、迫害された。マンハイムの新聞は、ドライスは変人でなく狂人だ、と書いたという。

 その後は摺り切れた森林管理官の制服を着て、ドライジーネの見本を抱えながら流浪の生活を続けた。

 1851年故郷カールスーエで、失意のうちに毀誉褒貶に満ちた波乱の人生を終えた。66歳だった。

   時が流れ、ドライジーネが歴史的な発明であったことに気づいたドイツ自転車協会の発案で、カールスルーエにドライスの顕彰碑が建てられた。没後40年経っていた。

 今日ドライスとドライジーネは、自転車の始祖として、自転車史の第一ページを飾るレジェンドになっている……。

2か月前