新連載第1回。わずか200年前のことながら、神話や伝説に彩られ多くの謎や虚構に満ちた自転車の起源説。その歴史をひも解く……。
始まりは車輪から
人類は太古の昔から、移動や運搬に人力だけでなく、動物の力を使ってきた。ロバや牛に乗って移動したり、荷物を運ぶために背中に積んだり引っ張らせた。
やがて、引っ張る力を効率よく使うために車輪を考案、木箱に付けて回転させた。小さな力を大きな力に変える「テコの原理」である。

因みに、テコの原理は自転車ときわめて関係が深い。車輪の他にも、ハンドル・ブレーキ・ペダル・ギヤ・変速機など多くがテコの応用である。
車輪の誕生は乗物の始まりでもあった。
歴史に初めて“車輪の付いた乗物”が現れたのは、紀元前3千年ごろのメソポタミアの神殿壁画の牛車である。
それから今日まで、人類は自転車など様々な車輪付きの乗り物を考案してきたが、その背景には常に車輪の進化があった。

車輪は人類が生んだ最古で最重要な発明。自転車にとっても原点の一つであり、発達史を語るとき車輪は欠かせない存在である。
交通の主役は馬車だった
人類が馴染んだ動物のなかで、馬を使うと速く遠くへ移動ができた。馬を車輪付き乗り物の動力として、2輪や4輪の馬車がつくられた。古代ギリシャ・ローマ時代には、運搬や旅行だけでなく兵器としても使われた。
14世紀に「懸架装置(サスペンション)」が考案されると、乗り心地が格段によくなった。デザインや機能が多様化して、馬車は飛躍的に発達、上流社会のシンボルになった。
余談だが、そのころ箱型馬車は「コーチ」と呼ばれた。意味は、“乗れば目的地に連れて行ってくれる”から。その後家庭教師の意味に転用され、今日ではスポーツの指導者をコーチと呼んでいる。

17世紀には、現代のバスのような乗合馬車や、タクシー代わりの辻馬車が現れ、都市交通に人々の生活に欠かせないものになった。
自動車の原型は馬車だった
1760年代にイギリスで産業革命が起こった。機械化、工業化が進んで蒸気機関が発明され、やがて馬車に代わって、機械を動力に自走する乗物が次々に生まれてきた。その代表が自動車であった。
「人の力で走る自転車が先に発明され、それが発達してエンジンで走る自動車になった」と多くの人が思っている。
だが、それは違う。自動車の発明は1769年、自転車はその50年後の1817年。自動車の原型は馬車、自転車は単独で発明されたものである。起源の筋が違う。
おそらく人々は、2つの車輪を縦に並べた自転車は横転する、という単純な問題を長い間解決できなかったのだろう。。。。。。。
最初の自動車は、フランス陸軍のキュニョー大尉が、大砲運搬のために蒸気機関で動く蒸気自動車「キュニョーの砲車」を発明した。車体は大きく重くスピードも10km/h以下(3km/hともいう)だった。

その後蒸気自動車はいくつも考案されたが、いずれも実用性に乏しく、モビリティーの役割を果たせなかった。
ようやく1827年、蒸気エンジン乗合バスが都市間交通に使われ普及していく。
19世紀後半には、実用化された自動車は、当時の主役の馬車と、そのころ発明された自転車と、三つ巴となって都市交通を競うことになる……。
世界を驚かせたダ·ヴィンチの自転車
自転車前史は虚構の世界でもある 。
自転車好きのヨーロッパ人は、自転車の元祖を探して本家争いを繰り返してきた。そのいくつかを紹介する。
その騒動は、ルネサンス(14~16世紀)最大の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)が描いたとおぼしき自転車のスケッチ発見から始まった。
(ダ・ヴィンチの遺稿から見つかったスケッチ)

1974年10月28日付け朝日新聞は、見出しで「自転車の祖もダビンチ 見つかった手稿に形跡」と報じた。
続いて「10年ほど前に発見されたダ・ヴィンチの遺稿の裏側に、このたび自転車らしいスケッチが見つかった」と紹介。「ただし、スケッチはきわめて稚拙で弟子が描いたものらしい」と伝えている。
ヨーロッパはこの話題で騒然となった。
天才ダ・ヴィンチなら当然だ、彼こそ自転車の始祖に違いない、と取り沙汰された。事実、日本の百科事典には今日でもそう記載されているものがある。
が、その後の研究でこれは後世の誰かの悪戯書きと判明、世界を騒がせた幻の自転車だった。
起源は神話の世界
1642年に建設されたイギリス・バッキンガム近郊のセント・ギルズ教会のステンドグラスに、自転車のようなものに跨る神秘的な天使が描かれている。

しかし、自転車ではなく地図作成に使われる測距車か、あるいは上からはみ出した滑車の一部という説もある。事実は定かでないが興味深い話題である。
木馬のホビーホースは評価が低い
人々が、馬や馬車、玩具の木馬から自転車を思いつくのは極めて自然である。初期の自転車の記録に「ホビーホース」(Hobby Horse)と名付けられたものが散見される。発想上は馬車や木馬が始祖と言ってもいい。
1787年のイギリスの雑誌(County Magazine)に、「木馬の脚に2つの縦列車輪をつけて鞍に跨って足で地面を蹴って進むホビーホースの挿絵」が掲載されている。(日本大百科辞典より、挿絵は不明)これを起源とする説もある。
しかしこの木馬は、前進するだけで方向転換できず、しょせん玩具の域を出ていない。これ以前に、記録は残ってなくても、同じような木馬を思いついた人は多数いるはず、と評価は低い。
シブラック伯爵の伝説
元祖探しの極めつけは、1790年に発明されたフランスの貴族ド・シブラック伯爵のセレリフェールである。
20世紀の初めから、シブラック伯爵発明説はイギリス・ドイツ・アメリカでも認められ、フランスの誇りとして定着していた。多くの書物に記載され、日本でも長く信じられていた。


だが、セレリフェールは現存せず、スケッチも設計図もない。在るのはいくつかの史書に載っている想像画だけである。
それによると、馬などの動物を象った木製フレームに、前後一体になった前後輪が付き、足蹴りで前進はできるが操縦装置はない。前述のイギリスのホビーホースと大差はない。
このセレリフェールは、1891年発刊の「自転車全書史」に、自転車の始祖として掲載された。その後読み継がれ、孫引きされ、博物館で複製がつくられるうち、いつしか歴史の事実となって定着していた。
ところが、1976年フランスのジャック・セレが「自転車の誕生、その論争について」という論文を発表。シブラックは別人の馬車輸入商、セレリフェールは大型四輪馬車のことだと論述した。
今日では、シブラック伯爵とセレリフェールは伝説となっている。
舟形車三代記
欧米の元祖争いに、日本も参戦できる史料がある。
(1)門弥の千里車
時代は享保年間(1716-1736) 。
現在の埼玉・本庄の百姓庄田門弥庄右衛門が、人力で陸上を走る小舟の形をした四輪車を考案、「千里車」と名付けた。

構造は、田畑に水を汲み上げる足踏み式水車を小さくして、千里車の前部に置く。人が立って板を踏めば前輪が回って走る仕掛けである。後輪は重量を支える遊び車で、乗る人が重心を傾けて方向を変える。前輪駆動方式で時速14kmだったという。
発明年は定かでないが、1729年に徳川幕府に献上されているから、1790年のシブラック伝説よりも60年以上も早い。
(2)からくり陸船車
翌年、この千里車は「陸船車」と呼ばれる“からくり”となって、京都竹本座の出し物となり人気を呼ぶ。きらびやかに儀装された前1論・後2輪の三輪車に進化し、後輪駆動で前輪は舵の役割を果たしていたという。

(3)九平次の陸舟奔車
この陸船車の噂をもとに、1732年彦根井伊藩の藩士平岩久平次が、舟形の三輪車「陸舟奔車(りくしゅうほんしゃ)」を考案した。

九平次の著わした「新製陸舟奔車之記」を基に構造を考察すると 、
駆動は門弥の踏車式でなくクランクペダル方式。後2輪を横につなぐ鉄製クランクシャフトの中央に、フライホイールの働きをする円盤形の奔車を組み込み、クランクに付けたペダル代わりの下駄を踏む。奔車が回って車輪が回転前進する後輪駆動である。
また操縦は、ハンドルの役目の丁字形の舵をつかって、前1輪を左右に動かす方式だった。
つまり、ペダルとハンドルという主要な自転車機能を備えた三輪車だった。
(4)舟形車は日本人の発想
古くから日本の乗物は、為政者によって多くの規制を受けてきた。
平安時代には牛車に乗るのは貴族に限られた。江戸時代には馬車は兵器になると制限され、荷車も馬に引かせることは禁止されていた。乗馬さえも跨って乗れるのは武士だけ、庶民は横座りで馬子が手綱を引いた。
そのせいか、日本人は人が担ぐ「輿・駕籠」、人が引っ張る「大八車・人力車・リヤカー」など人の力を使う乗物が得手だ。外国の影響を受けない鎖国の江戸時代に、人力で走る独自の乗物が考案されたとしても不思議ではない。
また水運は盛んであり、大型外洋船を除いて船をつくる制限はなく、手漕ぎや帆を張り河川を自由に自走できた。
だから、陸を走る乗物が、ヨーロッパのように馬や馬車由来でなく、日本の舟の形をしていたのは自然の発想だろう。
この三代にわたる舟形車は、「自転車とは人力で車輪を回して自走する乗物」と定義するなら、「車体が舟の形をした3~4輪の世界最古の自転車」と言って差し支えないだろう。
またクランクペダルは、世界最古の自転車機能を持った発明品と言える。
いずれ世界の自転車起源論争に、日本も加わる日が来るであろう……。



(江戸時代に現れた三代にわたる舟形車。イラストは角田安正著「自転車物語・スリーキングダム(戦前編)」より引用)