一滴の赤いインクを水面に垂らすと、パッと赤い色が全体に広がる 横芝の脳裏に浮かぶイメージである。混乱する市場に一つのヒット車を出せば、赤い色が拡散するように難局を打開できるはずだ……。
(1)
1996年ブリヂストンサイクルの企画部長横芝正志は、出向していた販売会社から4年振りに復帰。再び本社のマーケティング戦略を担当することになった。
横芝がいない3~4年の間に、市場は激変していた。
90年代に入るや、バブル経済がはじけデフレが到来。廉価志向から自転車の価格は急落、スーパーやホームセンターは1万円を切る超廉価中国輸入車を乱売した。自転車は使い捨て化の様相を呈していた。
市場の70%を占めていた大手10社のシェアは30%までに激減、メーカーの経営は急速に悪化し倒産が始まっていた。全国2万店の自転車専門店も、スーパーに客を奪われ転廃業が相次いだ。
主力の軽快車だけでなく、ロード・MTB・トライアスロンのスポーツ車や子供車も需要が減少、まさに八方塞がりの惨状であった。
横芝のやるべきことは、低価格競争を超越する高付加価値車をヒットさせること。ヒット車が現れれば市場は一変する……。
(2)
横芝は「企画部長・年度方針書」の冒頭に、「ヒット車をつくる」と明記した。この方針は広く社内に通達された。
たちまち、あちこちの部署から、
「ヒット車は、狙ってつくれるものではない。“つくる”ではなく“つくろう”という合言葉に換えるべき。もしつくれなかったら、どうするの?」との声があがった。
だが、ヒット車はスキル(能力)より、ウイル(意欲)から生まれるもの。強い意志がヒット車を生む、と横芝は“つくる”のままで押し通した……。
ヒット車づくりは商品企画から始まった。
もともと自転車は、素人目にはどれも同じように見える。パッと見て新車感を出すには、フレームとハンドルの2カ所の形状を変えること。まずはヒット車の土台づくりをしよう……。
横芝は上尾工場の西松次郎技術部長を訪ねた。
「最近西日本で、クロス(文字型)フレームが流行している。その新型を開発してください。ほら、うちでも10年ほど前に、ジウジアーロがデザインした奴ですよ」

「ハンドルは任せます。差別感があればいい」

1997年クロスフレームとシーガルハンドルの軽快車「ビート」を発売した。

(3)
「西松さん、ビートのデザインは好評です。これに独創メカを搭載して、ヒット車に育てたい。何かありませんか?」
そのころ、マウンテンバイクの前フォークに装着するサスペンションを、軽快車用に開発する動きがあった。
西松が勢い込んで答えた。
「いま小型サスを開発中です。これをビートに組み込みましょうか?」
西松は、フレーム交接部をワンビボット構造にして、エラストマー(弾性のあるゴム)サスペンションの働きにより、路面からのショックをフレームで吸収するアイデアを提案した。


サスペンションは、路面や段差の凸凹の反動を吸収する新メカとして、消費者に受け入れられるはずだ。
よし!これでいこう、と横芝はうなずく。
だが、サスペンションを辞書で引いても、緩衝装置とか、懸架装置とあり、これでは面白くない。
そこでネーミングに工夫を凝らした。
サスペンションを“クッション”と言い換え、さらに女性に馴染みやすいフランス語“LA”をつけて「ラクッション」と命名した。ラクッションには「楽(らく)」の意味もかけていた。

このラクッションを「ショック吸収フレーム」と名付けビートに搭載。
新軽快車「ビートラクション」の車種編成は、通学車からシティ車まで8車種22色のフルラインアップとした。

商品の次は宣伝だ 。
売り出したばかりでギャラが安く、将来性のある若手女性アイドル4名をリストアップした。
松嶋菜々子、松たか子、松雪泰子、そして菅野美穂。
誰がよいのか横芝にはわからない。4人のCMスポンサーを調べたところ、菅野美穂はネスレ日本がチョコレート菓子「キットカット」に起用するという。
これまで宮沢りえ、後藤久美子を起用して、若手アイドル登竜門のCMとして知られるネスレ日本の選定なら間違いないだろう……。
「菅野美穂にしよう!」

さらに調べると面白いことがわかった。
ネスレでは、菅野美穂を使ってキットカット購入客に“自転車1.500台当たる”全国キャンペーンを企画中という。

横芝はあることを思いつき、ネスレ宣伝部に出向いた。
「このたびブリヂストンでも、自転車の宣伝に菅野美穂を起用するので挨拶に参りました」
「わざわざご丁寧に……」
「ちょっと小耳に挟んだのですが、ネスレさんでは、自転車を景品にしたキャンペーンをおやりになるそうですね?」
「ええ、もうサンプル車もできていますよ。お見せしましょう」
運ばれてきた自転車は、フレームを茶褐色のキットカットカラーに塗り、ブランドロゴ入りのオリジナル仕様である。
「メーカー名がありませんね。中国車ですか?」
「そうです。国産車を使いたいのですが、予算の都合でやむをえません」
「中国車はまだ品質が安定していませんよ。景品に使うとはいえ、自転車は人の命を乗せるものです……」
当時の中国車は、買い付ける日本側バイヤーも売る中国側も、価格本位のため粗悪な部品が多く、組立て品質もばらついていた。
横芝には中国車を誹謗中傷する気持ちはなかったが、いかにクレームが多いかを実例を挙げて説明した。
「ネスレさんとブリヂストンの両社のCMに、菅野美穂が乗った自転車の映像が流れますね。するとテレビを見た消費者は、ネスレさんの景品の自転車はブリヂストン製と思うかもしれません」
「……」
「万一、景品の自転車にクレームが発生したら、お互いの企業イメージに傷がつきます。予算を少しアップしていただけたら、ブリヂストン製を特別価格で提供しますよ」
妙なことから、菅野美穂の縁で1.500台の自転車を受注したのだった……。
(5)
商品力と宣伝力の次に必要なことは販売力。この3者が揃ってこそ、勝利の方程式になる。
販売力は販社のセールスマンや小売店のやる気から生まれる。だが、やる気を引き出すことは容易ではない。
まず“ラクッションは売れる”というサクセスストーリーをつくること。それを話し続ければ伝説ができ、ブランドに対するロイヤリティが生まれ、販売力がつくられる。
もう一つ大切なことは、ラクッションは技術を売る自転車店の“専門店商品”であることを訴え、実車を展示したコーナーを店頭につくること。
97年7月横芝は、命運を賭けたテストマーケティングを実施。
東海3県(愛知、三重、岐阜)の自転車店に、ラクッション1.000台を配置。テレビ宣伝に加え、新聞折り込みチラシ、のぼり旗、菅野美穂の等身大人形、プレゼント用Tシャツなど本番並みのキャンペーンを展開した。

安売り競争下でも、良いものは高くても売れることが実証されたと、全国発売を前に販売店の予約注文が殺到、店頭展示が順調に進んだ。
まもなく菅野美穂のテレビCMが始まり、ラクッションは大ヒット、年間販売10万台を達成。これがきっかけとなり、ブリヂストンの業績は急回復、史上最高益を記録した。
横芝は回顧する。
一滴の赤いインクが全体を赤く染めるほどではなかったが、ラクッションにより低価格競争に歯止めがかかった。もう一度、高付加価値車市場の再構築に努力しよう。
それにしても、ヒット車は狙ってつくれるものだったなあ……。