社長命令に応え、横芝はベルト車に命運を賭けた。新戦略は“黄金の80年代”最大のヒット車を生む。さらに続く数々のヒット車。低価格競争を打破する“勝利の方程式”。いかにしてつくられたか?その歴史を追う。
(1)
ドイツから帰国、2カ月後 。
ブリヂストンサイクルの企画部長横芝正志は、社長徳永徳次郎の社長室のドアをノックした。
「ケルンで指示された企画が、ようやくできました……」
「ほう!」と答えた徳永は、傍らのソファーに座るように指さす。
「安売り競争に歯止めをかけるには、真似のできない技術を使った新車が必要です」
徳永は、当たり前だ、という顔でうなずく。
「技術部とも打ち合わせましたが、すぐ使える開発中のものは何もありません。1年でやれといわれるなら、過去に商品化された技術をお化粧直しして、新車をつくる以外に方法がありません」
「……」
「数年前、ベルトドライブの軽快車を発売したことがありましたね?」
「うん、ほとんど売れなかった。失敗だったな」
「でも、話題にならなかっただけに、世間の人は自転車にもベルトドライブがあることを全く知りません。独創的な新車として売り出せるはずです」
徳永は半信半疑のようだ。
「ヒットするには大型予算が不可欠です。前のベルトドライブはあまりにも小規模でした」
「そうはいっても、失敗したものに大きい投資なんて、リスクが大きすぎるよ」
「そこで、リスクを減らすテストマーケティングを企画しました……」
横芝は縷々説明した。
日本の人口を10分の1に縮めた“仮想市場”を設定する。ベルト車5千台の販売計画を立て、テレビ宣伝費5千万円など販売活動を本番並みに実施する。時期は半年後の来年5月から3カ月間。
うまく成功したら、10倍の規模に拡大して、暮れから全国販売に踏み切る。当面の販売5万台を目標に、テレビ予算5億円を投入、1年後の春需のリード車にする……。
当時5万台といえば、中堅メーカーの年間販売のほぼ半年分に相当していた。年間120万台を売る首位のブリヂストンにとっても、高価格帯のベルト車5万台は大きな価値がある。
テレビに5億円をかければ1台1万円もの宣伝費、まるで採算に合わないと反対が出るはず。が、ヒットすれば年間10万台以上見込める。何より春需戦線を勝利するリード車になれば、それだけでも大成功……。
「テスト結果を踏まえて全国展開すれば、リスクは最小限に抑えられます」
徳永は黙って頷いている。どうやら了解したようだ……。
(2)
新ベルト車開発を命じられた西村次郎技術部長がやってきた。
「横芝さん、新車の価格は?今どき高い自転車は売れませんよ」
「目標は4万円を切る39.800円、高価格帯で量販可能なギリギリの線です。安い汎用部品を使ってでも実現したい。」
「安い部品ばかりでは、魅力がないのでは?」
「フレームだけ新型にして、違いのわかるデザインにして欲しい」
「車種展開は?」
これまでの常とう手段は、フラッグシップモデルを軸に、多機種編成していた。これでは力が分散される。
「今回は1モデルだけ。一点集中です」
「ネーミングは?」
「“ベルトの王様”の意味の造語で、“ベルレックス”。車体には発音しないTの文字を真ん中に入れて“BELTREX”とします」

こうして、新しいベルト車が総力を挙げて開発されていった……。
(3)
商品はできた。次はテストマーケティングだ、と横芝は意気込む。
仮想市場として、福岡・岡山・静岡を選定。3県の合計人口は1.200万人、ちょうど日本の10分の1。いずれもブリヂストンのシェアが高く、成功確率が増す。時期は5月から3カ月間とする。
勝負の決め手はテレビ宣伝。主婦層をメインターゲットに、できるだけ多数のCMスポットを集中投下する。
テレビ広告の効果は、本数が多ければよいわけではない。スポットの視聴率は1本ごとに違うため、それぞれの視聴率をスポット本数に掛けて算出する。これを“延べ視聴率”、専門用語で“GRP(ジーアールピー)”という。一般に300GRP以下では効果がなく、1.000~1.500GRPぐらいが平均といわれている。今回は、10.000GRPが見込めるスポット数を買い付ける。
CM製作は “ベルトの自転車”と表現する。タレントなど使わなくても、ベルトというだけで差別感があるはずだ……。
さらに販売組織を総動員して、販売力を結集する。
当時は、全国8社の地域販社と取引自転車店が2万店余あった。仮想市場担当の3社に、できるだけ多数の取引店を集めるよう指示した。
(4)
85年5月「ベルト車説明会」が福岡で開催された。会場の博多市民会館大ホールは、何台もの貸切バスを連ねて集まった自転車店の店主、奥さん、店員たちで満員の盛況だった。
「今や業界は安売り競争の真っ只中です。皆さんはスーパーの安売りに悩まされていることでしょう。これに歯止めをかけるために、新しいベルト車を開発しました……」
東京から出張してきた横芝は、こう挨拶したあと、スライドを使ってベルトドライブの構造を説明した。
「これは特許品です。技術力のないスーパーは取り扱いが難しい。これこそ自転車店の “専門店商品”です。皆さんは、価格を売るのでなく技術を売っていただきたい……」
すると、会場から質問があった。
「ベルトの強度は大丈夫でしょうか?」
「強度はチェーン以上です。その証明に、チェーンの保証期間は1年ですが、ベルトは2年にしました。それでも万一に備えて、補修用ベルトの事前配置もします。安心して販売ください」
さらに、話はテレビ宣伝に。
「販売は戦争です。まず私どもメーカーが “CM爆弾”を県下に大量投下します。福岡にはテレビが4局、そのなかの3局に、CMスポットを繰り返し入れます。3カ月後には、県民の9割がベルト車を認知するほどの規模でやります」
会場の反応は上々である。
「しかし、空中戦だけでは戦争に勝てません。やはり商圏の顧客一人一人を獲得しないと、真の勝利は得られません……」
参加者全体の熱気が盛り上がってくる。
「皆さまに、のぼり旗などのキャンペーンツールや新聞折り込みチラシを提供します。これらの武器弾薬を使って、地上戦で勝利していただきたい……」
最後に締めくくった 。
「自転車店、販売会社、メーカー3者は運命共同体であります。福岡県の成り行きを、全国の仲間たちが息をのんで見守っています。皆で力を合わせて、安売り乱売の現状を打破しようではありませんか!」
割れんばかりの拍手のなか、“居合抜きの勝敗は鞘のうち、この勝負はいただいた!”と確信しながら横芝は降壇した……。
(5)
86年春需戦線は、ヒットしたベルト車に牽引されたブリヂストンが圧勝。ベルレックスは “黄金の80年代”の金字塔になった。
当時の業界新聞サイクルプレスは「ベルレックスは86年だけでも12万台の販売実績(11月時点)を上げた……」と報じている。
これが契機となって、自転車工業会に「デザイン保全制度」がつくられ、新しいデザインを事前登録して模倣車を防ぐ、いわば業界正常化が始まった。
また大手メーカーのなかに、独自の技術により高付加価値・高価格車を開発する気運が生まれてきた。
2年後、2位のミヤタが独自のベルトドライブを開発した。
構造が類似していたため、ブリヂストンは特許侵害で訴えた。が、一審判決で敗訴。「上級審で争おう」という意見もあったが、「ミヤタ方式は特許回避のため無理な設計になっている。重量が重くコストも高い。あまり売れない」との見解から、訴訟を打ち切った。案の定、数年後ミヤタは撤退した。
4位の丸石は、チェーンもベルトも使わない、シャフトドライブの「ベベルテック」を発売した。価格が49、800~5.9800円と高く期待外れのようだったが、技術開発競争に一石を投じている。

(6)
その後もベルレックスは売れ続け、他を圧倒した。
ベルト車で培われた商品力・宣伝力・販売力の一点集中戦略は、その後のブリヂストンのお家芸となり、次なるヒット車を生み出していった。
88年ベルト車の流れは、もう一つの大ヒット車「カマキリ」と合流。軽さを売り物の「カルカマ」となり、所ジョージのテレビCMと相まって、これまた大ヒットする。

ベルト車は独自の地位を得て、90年代には、“ベルト車ご愛用100万台記念キャンペーン”を展開した。
その後も、ヒット車の系譜は続く。
98年、ベルトとアルミフレームの「アルベルト」を発売、これまた大ヒット。モデルチェンジをしながら今日も続いている。

その前後、大量の廉価輸入車とスーパーの攻勢により、日本車は壊滅状態に陥った。それでもブリヂストンは、これら高付加価値車に助けられ、99年には史上最高益を記録した。
最近では、ベルトドライブはスポーツ車でも商品化され、クロスバイク「オルディナ」を発売。グラベルバイク人気のなか、さらなる展開が期待されている。

(7)
それから10数年の歳月が流れた 。
現役を退いた横芝は、家族を伴いドイツのアムステルダムからフランクフルト経由チェコ・のプラハまでの鉄道の旅に出かけ、途中ケルンに立ち寄った。
何度目かのケルン大聖堂を仰ぎ見るうち、横芝の脳裏に、ドイツの自動車メーカーベンツ・ポルシェ・フォルクスワーゲンのベルト自転車の姿が浮かんできた。

そうか、あのケルンの一夜で芽生えたベルトドライブが、大きく成長してまたドイツに返ってきたのか、と往時を偲んで感懐に耽るばかりであった……。
(後編終わり)