日本経済新聞夕刊に「こころの玉手箱」というエッセイ欄がある。そのなかで、各界の著名人が、人生の折々に心に残った思い出の品々と、それにまつわるエピソードを語っている。
最近、劇作家・演出家の佐藤信さんが、「町の雰囲気感じる自転車」と題する一文をその欄に寄稿されている。

勝手ながら、その一部を抜粋させていただく 。
「移動にはもっぱら自転車を使う。(略)自宅から50分ぐらいの距離までならこいでいく。」
「乗り始めたのは中学生の頃だ。(略)行動半径が広がったのがうれしくて都内を走り回った。」
「これまでにだいたい10台ぐらい乗ってきただろうか。現在使っているものは13年前にインターネットで買ったものだ。坂道を楽に登れるように電動タイプを選んだが、休みの日はアクティブに過ごしたいとタイヤが太いマウンテンバイク仕様だ。」
「風を切りながら無心でペダルをこいでいると、ふっとアイデアが浮かんでくることがある。」
「自転車のスピードは、町の雰囲気を感じるのにもぴったりだ」
そして、末尾はこう結ばれている 。
「私はハンドルを握ると中学生の頃に戻ったような気持ちになる。これからも安全に気をつけながら乗り続けたい。」と。
佐藤さんのこのエッセイを読むと、同じ感懐を覚える人は多いであろう……。
自転車は、老若男女あらゆる人々の生活や遊びに欠かせない乗り物であり、人生の一部といってもよい存在である。
自転車に初めて乗った少年は、輝くような喜びを感じ、やがて仲間たちと自転車遊びに興じる。長じては通学通勤に、またスポーツバイクで競走する。
女性たちにとって、ショッピングや子供の送迎に使う自転車は、頼りがいのある友人であり、生涯の伴侶でもある。
まさに普遍的な乗り物といえよう。
だが、自転車には戦後3度にわたるピンチがあった。
最初の危機は1950年代 。
モータリゼーションの大波のなか、実用車だけだった自転車は時代遅れとされた。国内需要は年間200~300万台と低迷、200社あった自転車メーカーの撤退倒産が相次いだ。

2度目は1970年代後半 。
74年の石油ショックにより、国内750万台をピークに500万台まで激減した。大手メーカーは10数社まで淘汰され、代わって多くの廉価車メーカーが台頭、価格競争が始まった。
業界はこの2度にわたるピンチ打開のため、実用車からミニサイクル・軽快車・スポーツ車・子供車へと高付加価値の新需要を創造した。

さらに、市場細分化(マーケットセグメンテーション)戦略により、男女・年齢・用途・価格、さらにサイズ・デザイン・カラーで区分した数多くの新製品を開発、数百機種もの品揃えをした。
多機種少量の努力の結果、レジャースポーツ用中心の欧米と違い、日本ではあらゆる人々がいろいろな用途に使う、世界でも稀な自転車群をつくりあげた。
ところが、第3の危機がやってきた。
1990年代後半のバブル経済崩壊とともに、台湾中国からの廉価輸入車が大量流入する。国内需要は1.000万台を超えたが、放置車の山のなか低価格競争に敗れた日本のメーカーは、一部を残し壊滅した。
しかし自転車は、みたび蘇った。
環境に優しいという世界的な価値観のもと、生産は海外移転したが、都市交通やスポーツ、健康づくりなどに新しい需要が見直されている。
シェア自転車、スポーツバイク、電動アシスト車の普及に加え、新型コロナが需要を後押しする……。
念願の自転車化社会の到来は間近である。
(追記)日経新聞「こころの玉手箱」に、弁護士の福井健策さんが「丈夫で役立つ理想の働き」と題する自転車のエッセイを寄せられている。
その要旨を自転車物語WEBの「角田安正・雑記帖」欄で紹介している。
マーケティングのこころ – 自転車物語Web (jitenshamonogatari.com)
併せてご高覧いただければ幸いです。
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