自転車を“人力で動く乗りもの”と定義する限り、“楽に走る”ことは永遠のテーマである。しかし、モーターのような機械力を使うと、たちまち自転車でなくなる。この命題にエポックをもたらしたのが、電動アシスト機構である。
(1)
この物語は一本の電話から始まった。1992年初めのことである 。
「突然で驚くなよ!オートバイのヤマハ発動機が、世界で初めての自転車を開発したそうだ!」
勢い込んで話すのは、ブリヂストンの自動車タイヤ直需部長鈴本啓一。聞き手のブリヂストンサイクル企画部長横芝正志にとって、気の置けない同期入社の友人である。
「一体どんな自転車なの?」
「実は俺も知らないんだ。お得意先のヤマハから紹介を頼まれたのよ。機密保持契約にサインの上で、説明は、直接サイクルにするそうだ……」
大げさだなと思ったが、これが世界の自転車史を変える、電動アシスト車のプロローグであった……。
(2)
半月後、ヤマハの長谷川武彦専務(後に社長)がスタッフとともに来社、居並ぶサイクルの幹部を前に説明が始まった。
「このたび、電動モーターを付けた新しい自転車を開発しました。“電動アシスト車”とか“電動車”と呼んでいる」
“ペダルの踏力を検知して、補助的動力を与えるユニット”を自転車に装着すると、時速15kmを超えると駆動力が加わり、24km以上になると停止するという。

「このユニットと、従来のバッテリーとモーターを付ければ、坂道や逆風でも楽に走れ、鉛電池で20km走行できる……」
横芝はすかさず質問した。
「道交法では、“動力を持つ乗りものはすべて認可が必要”と定められています。これも運転免許が必要ですね?」
「いいえ、動力を備えているが、免許は不要。普通の自転車と同じ扱いです」
“動力は人力の補助に過ぎず、モーターだけでは自走できない。だから自転車だ”という理屈である。すでに警察庁の内諾を得ており、ヤマハが発売すれば、道交法を改正する手筈になっているという。
横芝は驚いた。システムそのものも画期的だったが、安全第一の保守的な警察庁に、自転車として認めさせたヤマハの政治力に……。
確かに、道交法は「人の力を補うため原動機を用いる自転車あるいは駆動補助機付自転車は免許不要」と、その後改正されている。
(3)
しばらくして、鈴本直需部長から電話がかかってきた。
「ヤマハの話、何だったの?」
「詳しくはまだ話せないが、新開発のユニットをヤマハが生産するので、ブリヂストンがそれを使って完成車を商品化しないかという提案だった」
「有望なの?」
「将来性はあるね。10年ほど前にナショナルが販売した電気自転車と違って、免許が要らないからね。ただ、価格が15万円にもなりそうなので、困っているんだ。本気で売るなら、TV宣伝など先行投資も必要だしね……」
そのころ、市場には1万円台の廉価輸入車が激増、ブリヂストンの業績も大きく悪化して商品化に二の足を踏んでいた。
「ヤマハも、ヤマハブランドの完成車はつくりたくないようだ。在庫リスクがある上に、他の完成車メーカーへのユニット売り込みが難しくなるからね。ユニットだけを単体で売る方が賢明だね」
ヤマハの得意な50ccクラスのバイク国内販売台数は、82年の278万台をピークに、100万台を切るまでに激減していた。電動車はその対策でもあった。
とはいえ、完成車がなければユニットが売れない。
横芝は鈴本部長に電話した。
「ようやく話がまとまった。ヤマハが商品化することになったよ」
「ブリヂストンは?」
「自転車のノウハウを活かして、ユニットを装着したヤマハブランドの電動車の企画と生産をする。ヤマハに全数納車後、一部を買い戻してブリヂストンでも販売する」
「販売ルートがややこしそうだね」
「ヤマハはオートバイ店、ブリヂストンは自転車店を分担する」
93年秋、商品名「ヤマハパス」(本体定価137.000円・充電器12.000円)が、神奈川・静岡・兵庫3県限定で1.000台発売された。

わずか1カ月で1.200台の予約を集める人気になった。

その実績を踏まえ、94年春パスは全国発売された。消費者は、50ccスクーターと同じ高価格であっても、楽に走れる電動車を評価、上々の滑り出しだった……。
(4)
ヤマハの電動車に、ライバルのホンダ・スズキーは素早く対応した 。
1年遅れてホンダは、着脱式ニッカド電池とアルミパーツよる軽量化電動車「ラクーン」(定価136.000円・充電器12.000円)を発売した。ユニットは三つ葉電機製だった。

「スハ!“HY戦争”の再燃か!」と市場は色めき立つ。
HY戦争とは、80年代前半ホンダが開発したソフトバイク「ロードパル」を、ヤマハがステップスルー式「パッソル」で追撃。それがオートバイの全面戦争に拡大、5年間にわたる激戦ののち、ホンダが勝利したシェア争いのこと。
翌96年、ヤマハが充電器込み価格99.800円、ホンダも10万円を切る新車を投入。両者の激突により、第2次HY戦争の様相を呈してきた。
オートバイ御三家残るスズキも、同年「ラブ」で参戦。市場は荒れ模様になっていく……。
(5)
電動車市場には家電企業も参入した 。
95年、三洋電機(のちパナソニックと合併)は、車軸取付式ユニットを新発売、三洋自身も、自社ブランド「エナクル」を家電ルートで販売した。
このユニットを使い、ホダカ・サイモト・出来・ヨコタの商業型自転車メーカー4社が、低価格電動車を発売、スーパーにも販売した。

自転車の一方の旗頭・松下は?
96年ナショナル自転車工業(現パナソニックサイクルテック)は、ヤマハからユニットの供給を受け、三輪車「リラクル」を発売、それをヤマハも「パスワゴン」の商品名で上市した。

しかし、ヤマハのユニットでは電器系メーカーの沽券にかかわるとばかり、新ユニットを自社開発、「陽のあたる坂道」を発売した。

人気TV番組水戸黄門のCMが中高年層に効果を上げ、家電ルートにも供給、一気にシェアを伸ばしてきた……。
(6)
電動車出現から4年経った97年、多くのメーカーの参入により、国内出荷は前年の9万台から22万台へと急伸した。
市場が拡大するにつれ、ヤマハとブリヂストンのパス共同販売は、互いの販売店がぶつかり混乱してきた。
その回避もあって、ブリヂストンは、ヤマハユニット搭載の独自ブランド「アシスタ」上市に踏み切る。

ミヤタ(商品名「グッドラック」)や丸石(三輪車「ふらつかーず」)もヤマハユニットを使い商品化、自転車メーカーの電動車はほぼ出揃った。
(7)
99年になり、突然需要が急減。国内出荷は15万台に落ち込み、翌年になっても回復の気配はなかった。
このころ、ナショナルの19.9kgの軽量を売り物にした「陽のあたる坂道VIVI」が大ヒット。首位ヤマハ・ブリヂストン連合軍のシェアを逆転したと取りざたされた。
苦境に陥ったヤマハは、若い女性層を狙って、起死回生の低価格戦略に打って出た。充電器込み価格69.800円という低価格パスを投入、一気にシェア挽回を目指した。
ブリヂストンも同価格のアシスタを発売した。
すかさずホンダも、中国製部品を大量に使って低価格車で追随。が、品質問題から12万台のリコールが発生。これが遠因となって、04年電動車から撤退する。
MTB・折り畳み車・軽量モノコックフレーム車など、独自の電動車を開発したホンダだったが、ついにヤマハを抜くことはなかった……。
(8)
2020年、すでに現役を退いていた横芝は、同期OB会で鈴本に話しかけた。
「あの時は世話になったね……」
「俺も自転車好きだから、興味があったんだ。それにしても、電動車にはいろんな会社が関わったなあ……」
「そうなんだ。ヤマハ・ブリヂストン・ホンダ・スズキ・パナソニック・三洋電機・ミヤタ・丸石・サンスター技研……数えれば切りがない」
「俺はタイヤ直需部長だったから覚えているが、あのトヨタも、電動車を発売したんだ」

出典:http://www.takachiho-haruka.com/koujitu/koujitu02_11.htm
「そうそう、玩具のタカラも商品化したな……」

「鈴本君は知らないだろうが、ソニー・三菱重工・東芝も電動車の特許を多数出願していたよ。なかでもソニーはリチュウム電池の試作車をサイクルショーに出品した。ソニーが商品化してたら面白かったな……」
昔話が一段落すると、鈴本は話題を変えた。
「最近の需要は?」
「18年の国内出荷は687.000台。5年間で4割増加している」
「何が増えたの?」
「主婦が子供を乗せる同乗器のついたママチャリが認可されことが大きいな。免許返納の高齢者にも需要が広がっている」

「ほかにも、シェア自転車に使われている……」

「スポーツ車では?」
「欧米で、ヤマハやパナソニックのユニットを使って“eバイク”と呼ばれて商品化されている。日本でも、4~5年前からロードやクロスバイクに装着され、最近ではグラベルバイクというニューモデルが人気だ」

「それと、シマノやドイツのボッシュがユニットに参入、選択肢が広がっている……」

雑談まじりの二人の話はつきない。
これからも、ユニットやバッテリーの性能は向上し、需要層も用途もどんどん広がる。国内で年間100万台を突破する日も間近だ。世界中で自転車が見直されている。アシストの将来はとてつもなく明るい……。
最後に、横芝が締めくくった 。
「あの時のアシストと過ぎ去った歳月に乾杯!」