世界最大の自転車生産国アメリカで、10スピード車の大流行がバッタリ止まり、需要が半減、市場は存亡の危機に直面していた。1975年のことである。救世主マウンテンバイク(MTB)登場、新旧勢力の交替、アメリカは輸入国に変貌していく。20世紀末に起こった100年に1度の世界自転車史の大エポックを語る 。
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1987年秋、ブリヂストンサイクルの企画部長横芝正志に、アメリカから国際電話がかかってきた。社長の徳永徳次郎からである。
徳永は、自らを団長に、西松次郎技術部長たちを加えた“MTB米国調査団”を編成、海外出張途上にあった。
君に頼みがある、と前置きした徳永の電話の内容は 。
アメリカのMTBは聞いてる以上に盛んだ。普及モデルも開発され、シティユースに広がっている。これからも需要は大きく伸びる。
だが、アメリカのメーカーはMTBの量産能力がない。ほとんどが海外委託生産だ。頼みの10スピード車は需要減退、工場空洞化が進んでいる。
日本市場でもMTBは一時的に流行する。だが、ワイルドな乗り方と大雑把なものづくりは、日本人の国民性に向かない。ブームは長続きしない可能性がある。生産面でも空洞化は避けたい 。
「そこで横芝君、日本の風土にあったMTB戦略を考えてくれたまえ!」
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もともと日本のスポーツ車は、形状はスポーツモデルであっても、実態は通学などの実用や電装車のような遊び用であり、欧米のようなスポーツ用は少なかった。
80年代になって、ようやく全国的にロードレースが盛んになり、本格的なロードバイク時代が到来しつつあった。
そこにアメリカから、山岳や荒野を走る新しいスポーツのMTBが伝わり、一部のメーカーは商品化を始めた。が、期待ほどには売れない。
業界団体「自転車工業会」では、かねてから新需要振興のためにテレビ宣伝を実施していた。
そのテーマに新しくMTBを取り上げるか、業界挙げての論争が始まった。
「“マウンテンバイク”という呼び方は突飛だ。用途も特殊過ぎる。ようやく盛んになってきたロードバイクを優先すべき。巷では子供のBMXと混同され、大人が乗らないそうだ」と、疑問視する声が多い。
賛成派は、「アメリカでは“オールテレインバイク”(全地形対応)とも呼んで、一般に需要が広がっている。MTBでなくATBと呼び名を変えて、テレビ宣伝をやれば、日本でも需要が喚起できる」と大声で言う。
議論は紛糾した。ブリヂストンの徳永社長は自転車工業会理事長も兼ねていた。このたびの米国調査団は、MTBの方向性を決める目的も兼ねていた。
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よく知られているようにMTBは、70年代初め、サンフランシスコ郊外タマルパス山麓フェアファックスの若者たちの、自転車で山下りする遊びから発祥した。
トム・リッチー、ゲイリー・フィッシャー、ジョー・ブリーズ、チャーリー・ケリーたちが、古い実用車やビーチクルーザーを改造、太いタイヤ、フラットバー、頑丈なブレーキなど工夫を重ね「クランカー(ポンコツ)」と呼ぶ初期のMTBをつくりあげていった。

やがて商業化が始まり、トレック、センチュリオン、キャノンデールなどの新勢力が続々誕生した。
なかでもスペシャライズドが発売した「スタンプジャンパー」が大ヒット。全米にMTBの名が知られていく。
新興メーカーは生産工場を持たないファブレス企業、日本や台湾に生産を委託した。日本ではアラヤがスタンプジャンパーを受託生産した。
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自転車フレームの製造方法には、「ティグ溶接」と「ロウ付け」がある。ティグ溶接は、パイプ接合部に、みみずばれのような醜いビート跡が残る。

日本のスポーツ車は、軽量化と工芸美を重んじる趣きがあり、接合部の目立たないロウ付けが一般的。接合部を覆って装飾美を競う「ラグ式」も人気があった。だから大きなビート跡は好まれない。
反対に乱暴な使い方のMTBでは、軽量より強度を重視する。強度のあるティグ溶接は労働集約的で低コスト、折から自転車生産国として台頭してきた台湾に適していた。
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82年アラヤは、アメリカ向け輸出車スタンプジャンパーを「マディフォックス」と名付け、初の国産車として日本国内で発売した。

“冒険心全開”をキャッチフレーズに、オフロード車として大々的に売り出したが全く売れない。消費者は、山下りの自転車に興味を示さない。
それでも、BMXが登場するアメリカ映画「ET」の大ヒットにより、BMXとの違いが理解されるなど、アメリカからのMTB情報が広く知られてきて、日本でもようやく人気が高まりブーム化する。
すると、自転車乗りでもないのに、流行に敏感な一部の若者は、「このみみずばれこそ本場物だ」とか、「飾りだから、動かないようにマイカー後部にハンダ付してくれ」(日産の技術部長談)などと言ったという。
アラヤに続き、日本メーカー第2位のミヤタが、MTB「リッジランナー」を発売して人気となった。
対抗上、ブリヂストンもMTBを発売した。

ところが評判が悪かった。「MTBらしくない」「輸出用ライトウェイトの改造車のようだ」などと酷評された……。
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ようやく、MTBの全面見直しと新車開発が始まった 。
ブリヂストンは、ロードバイクで絶対的シェアを誇っていたこともあり、機能とデザインを重視、コスト高でも美しいロウ付けへのこだわりがあった。
またフレームづくりでは、アルミやカーボンの新素材採用、溶接しない接着工法やパイプを膨らませるラグ不要のバルジ工法など新方式を開発している。いまさらプリミティブなティグ溶接は採用できない。
MTBでも、ロウ付けによる軽量化、耐衝撃性、走行性能、ライディングポジションの自由度などの実現を目指した。
とはいえ、新車開発は容易ではない。1年遅れた。そのうち業界のテレビ宣伝も始まった。
販売第一線や業界マスコミからは「新製品競争では、いつも業界のトップを切ったブリヂストンが、MTBでは負けた!」と非難の声が上がる。
遅ればせながら88年、「ワイルドウエスト」シリーズMTB3車種を発売した。
本格オフロ―ドレーシングモデルは、ロウ付けクロモリフレーム、ワイヤー内臓など機能美を追求。普及モデルはダイキャスト製フレームで強度と低コストを実現した。

販促も手を打った。“ファットタイヤ”と銘打ったMTB競技大会を全国8会場で実施した。
ブリヂストンの販売網は強固だった。一気に失われたシェアを奪回していく。
しかし横芝の胸中は複雑だった。常に先手をとってきた新車開発競争に後れをとったことが、許せない傷跡として残っていた……。
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80~90年代にかけて、MTBは世界の主流になっていった。外観だけのルック車も現れ、アメリカでは大人車の3分の2を占めた。
競技も盛んになり、ダウンヒルやクロスカントリーの世界選手権、さらにはオリンピック種目に発展していった。
アメリカのシュウインたち旧勢力は、MTBに乗り遅れた。海外移転により国内工場はさびれ、やがて消滅。アメリカは、世界最大の生産国の地位を失った。
ヨーロッパでは、当初MTBが理解できず無視した。オランダでは「国内には高い山がない……」とジョークを言ったそうだ。
MTBの普及とともに、ロウ付けの日本製はティグ溶接の台湾製にアメリカから駆逐された。
日本国内でも、折からの円高とともに、大手を除く中小多数の完成車メーカーが壊滅、日本は輸出国から輸入国に変貌する。MTBブームは長続きしなかったが、需要は静かに定着していった。
代わって台湾で、ジャイアントやメリダが勃興。中国でも国営企業をはじめ新興企業が続々誕生、世界の生産基地になった。
部品では、シマノが早くからMTBに着目、若者たちの部品改造を手伝いながら、ノウハウを活かしてMTBコンポ「ディオーレ」を発売。シマノが部品メーカーとして世界を制覇する決定打になった。
MTBは盛衰の分水嶺だった。世界の自転車絵図を塗り変えたのである。