「ドイツで生まれ、フランスで育ち、イギリスで成長した」と自転車史は語っている。自転車大国アメリカには、独自の自転車文化がなく、常にヨーロッパの亜流だった。そのアメリカから2つの新しいジャンルが生まれ、世界を変えていく。アメリカ発“100年に1度”の大変革 その流れを紐解く。
(1)
1982年アメリカ映画「ET」が日本で公開され、爆発的な人気を呼んだ 。
言うまでもなく、スティーブン・スピルバーグ監督の映画史に残るSF最高傑作である。その映画のなかで、主役のエリオット少年が乗った自転車が話題になった。
その自転車の名はBMX。日本ではまだ知られていない。しかも大阪の桑原という小さなメーカーの日本製だという。俄然、世間の関心が高まった。

「BMXとは何だ?」
「いまアメリカで大流行の子供車だよ。バイシクルモトクロスの略だ。子供がBMXに乗ってモトクロス競技をする。何百万台も売れているそうだ」
「いつごろ誕生したの?」
「実はね、BMXより前にアメリカで大ブームになった子供車があったのよ。それが元祖だ。もう日本では忘れられているがね」
「その話を聞かせて……」
(2)
戦後、自動車王国アメリカでは、自転車は子供の玩具に過ぎず、大人需要はほとんどなかった。
自転車メーカー「シュウイン」は、太いバルーンタイヤを装着した流線型エアロサイクルを開発。子供たちの人気の的になった。
シュウィンは全米に自転車専門店網を構築、量販店主体のマレーオハイオやハフマン(ハフィー)を抜き去り、“自転車と言えばシュウイン”と、代名詞になるほど拡大する。
1960年代になると、自転車遊びにさらに工夫を凝らした子供車が登場した。
その名を「ハイライザー」と言う。
高いハイライズハンドル・細長いバナナサドル・レーシングスリックタイヤ……。子供たちは20インチ車にまたがり、前輪を上げて走るウイリーや、タイヤを横滑りさせる遊びに夢中になった。
そのなかで、シュウインの「スティングレイ」や英国ラレーの「チョッパー」が大ヒット。通販のシアーズ・ローバックなども台湾に生産委託、大量に輸入販売した。
このころのアメリカ国内需要は600万台、その7割が子供車であり、大半がハイライザー。正に絶頂期だった。

(3)
ハイライザーは、単なる子供車の一過性ブームに終わらなかった 。
1970年代初め、アメリカ西海岸の子供たちが、ハイライザーに乗ってオートバイのモトクロスをまねて、空地にコースをつくり競走を始めた。
選手は走りながら、立ち漕ぎや飛んだり跳ねたりジャンプをする。このため頑丈な車体と独特のパーツが開発され、競技に不要な部品は外され、これまでにない20インチの子供車が生まれた。
ハイライザーが進化、BMXになったのである。
BMXは全米に広がり、各地にサーキットがつくられ、競技大会が開催された。
子供たちは、郊外の荒れ地の起伏の多い300~400mのラフなコースを、上り下りして激走。倒れても起き上がる勇敢な子供の姿に、カウボーイ気質のアメリカ人は熱狂、家族ぐるみで応援した……。
(4)
BMX人気の情報は、いち早く日本の自転車メーカーに伝わった 。
そのころの日本の子供車は玩具性が高く、仮面ライダーのようなキャラクター車が全盛、スポーツ子供車はないに等しかった。
そのためアメリカ生まれの荒っぽいBMXは、日本の子供には馴染まないという声が多く、商品化する大手メーカーはない。商品的にも構造が単純で付加価値に乏しく、事業としての魅力に乏しい。
ブリヂストンの企画部長横芝正志は、BMXの将来性を見極めようとアメリカに出張、レースの実地見学と関係者を訪問した。
横芝の「BMX視察報告書」によると、
シュウインの幹部は、「ハイライザーの成功体験が邪魔して、BMXブームに乗り遅れた。全米20数か所でBMXツアーを開催中である。必ず巻き返す」
ロス郊外にオフィスを構えた子供時代のBMX有名選手は、「BMXが子供だけでなく、大人の競技スポーツになるよう体制づくりを始めている。すでにスポンサーも見つかった」
シマノとマエダのサービス合戦は激しい。シュウインツアーのミシガン湖会場には、両社ともサービスカーを出していた。アマリロのような小会場ではシマノだけだった。この差が、両者の将来を分けるだろう。
ロス市内で、アメリカらしい風景を見た。賞金付レースの告知ポスターを見た数10人の子供が、BMXに乗って空き地に集まる。一人のイベント屋が、スタート台・障害物をトラックに積んで現れコースをつくる。子供たちから数ドルずつ出場料を集め、一部を賞金にしてレースを始める。数時間で終ると、バタバタとコースを片付け、勝者に賞金を渡し、残りをポケットに帰っていく……。
横芝は、「BMXの勢いは本物である。ブリヂストンでも生産販売体制を至急整える必要がある」と報告書の結論とした。
(5)
1979年ブリヂストンは、「ジョーズ」と名付けたBMXを日本国内で発売した。映画「ET」公開に先立つ3年前である。

すると、どこから聞いたのか、横芝がアメリカからBMXコースづくりの資料を持ち帰ったことが伝わり、コース設計の指導依頼があった。
「東京ディズニーランド」では、完成前の工事中の荒れ地にコースをつくって、BMXの可能性をテストしたいとのこと。
また「よみうりランド」からも同様の依頼があった。
横芝はよみうりランドの仮コースで、ブリヂストンの全国8販社社長や技術陣を集めて、初のBMX講習を行った。参加した不慣れな社長たちはコース実走で転倒続出、2人も骨折する出来事が発生した。
残念なことに、東京ディズニーランド・よみうりランドともに、事故を気にするお国柄か、最終的に常設コースは実現しなかった……。
横芝はこれらの経験を活かして、本格BMX車「クロスファイアー」シリーズと、数量稼ぎを目的にBMXルックのタウンユース子供車を発売した。


ついでながら横芝は、スペインのカタルーニヤの子供の遊びから生まれたBMXに似た「BTR(バイクトライアル)」にも着目、商品化した。

その後BTRは、足を着けずに障害物を超える競技スポーツとして、ヨーロッパから世界に広がっている。
(6)
BMXは大人のスポーツに成長した。
アメリカの愛好者は500万人、全米BMX協会が組織され、スピードを競うレースと、技を競うフリースタイルに分化。世界選手権やオリンピック競技に発展している。
BMXは、同時期に生まれたMTB(マウンテンバイク)とともに、世界の自転車史に2つの大きな変化をもたらした。
一つは、スピードレースが主体だった自転車競技に、飛んだり跳ねたり見せる要素が加わり、新しい競技ジャンルを生んだ。
もう一つは、台湾・中国の自転車工業の勃興を促し、世界の自転車生産国の勢力図を大きく塗り替えた。
1817年の自転車誕生以来、一世紀半にわたって、常にヨーロッパの影響下にあったアメリカに、初めてアメリカらしい新ジャンルが確立され、新しい自転車文化が生まれたと言えようか……。
(注)関連情報は、弊著「自転車物語Ⅱ・バトルフィールド(戦後編)」(八重洲出版刊)にも掲載されています。ご参照ください。