ブランド戦争“新スリーキングダム” /アンカー誕生秘話(2)

ブランドを武器に攻める欧米車、上陸したが伸び悩む台湾車、防戦一方に追いやられる日本車。新・三国志━ブランドの三つ巴戦が始まった。日本のトップブリヂストンは、サザンクロスプロジェクトを起ち上げ、反転攻勢に出る。が、思いもかけず頓挫、暗雲漂う。戦いの行方は?

(1)

プロジェクト発足からほぼ1年、1997年晩秋のこと  

新ブランド構築を目指して、技術・生産・販売各本部が一体となって開発した新車アンカーは、曲折を経て発売目前であった。

ブリヂストンの企画部長横芝正志は、オリンピックメダリスト十文字貴信選手とのアドバイザー契約や、アンカーの広告媒体の手配を済ませ、記者発表会の準備にとりかかっていた。

  その矢先。

「横芝さん、大変申し訳ない!アンカーが期限に間に合わない!」

受話器から、上尾工場の技術部長西松次郎の悲痛な声が聞こえてきた。

「今さら!どうしたの?」

技術上の新しい問題が発生、生産ができないとの断りの連絡だった。

「遅れるだけではすまないよ!順調だ、と言ってたじゃない!こちらはマスコミに発表会の案内状を送ったばかりだよ」

怒りにまかせ問い詰めても、西松は申しわけないの一点張り。半年近く遅れるそうだ。

横芝はどうするかと思案を巡らすうち、あることを思いつく。

「フラッグシップに使うピスト車は間に合うの?」

「それは大丈夫、1号試作車が完成してますからね」

ようやく横芝は冷静になった。が、心中穏やかでない。すでに準備は整えられている。収拾が大変だ……。

(2)

 翌朝、部下を集め事情を説明した。

「……というわけで、アンカーが遅れる。中途半端な時期では反ってまずい、発売を1年間延期しよう。この間に完璧なものに仕上げて欲しい」

宣伝担当が質問する。

「解約できる宣伝媒体にはすぐ連絡します。でも、“サイスポ”のような専門誌は、年間契約ですし、イメージからも継続が必要です。アンカーが間に合わないなら、何を広告しますか?まさか、白紙にはできませんからね」

「そこでだ。先行宣伝をやろう。“ティザ―広告”というやつだ。最近、日産自動車が新車のシーマ発売に使った手だ」

ティザー広告とは、じらし広告とか覆面広告と言われ、発売商品の内容を明らかにしないことで注意を惹く宣伝手法のこと。現在はインターネット広告に多い。

「これから1年間、アンカーをレースに使って実績を積み上げよう。それを広告して“勝てるバイク”のイメージをつくる。それがマニアから中級者へ広がって、ブリヂストンのスポーツ車全体に新しいイメージができる……」

 横芝はそう言い、さらに話を続けた。

「だが、真のイメージづくりには科学的、技術的な裏付けがなくてはならない。虚構でつくったイメージはいつか崩壊する。広告では、技術開発と実戦両面から訴えよう……」

(3)

プロジェクトは再開され、98年からアンカーの事前宣伝が始まった。

  サイクルスポーツの広告を以下に再現する。

[第1回]フレーム設計の最適化を図る「最適構造解析技術」と、アンカー試作車(非売品)に乗った十文字選手の関東プロオリンピックスプリント優勝を紙面で報じた。ブランドショルダーは“勝つためのバイク”とする。

(サイクルスポーツ98年1月号広告:試作車登場)

第2回]トレッドミル実験による、日本人の身体能力に合わせた「バイオメカニクス」の紹介。技術イメージを優先する。

(サイクルスポーツ98年3月号広告:バイオメカニクス告知)

[第3回]十文字選手の1000mタイムトライアル3連覇。ブランドショルダーは“世界の頂点を目指して”に変更。アンカーに注目集まり、問い合わせ多くなる。

(サイクルスポーツ98年7月号広告:十文字選手3連勝)

[第4回]MTBジャパンのクロスカントリーで、チームブリヂストンアンカーの宇田川聡仁、鈴木雷太選手が連勝。アンカーがブリヂストン製であることが知られていく。

(サイクルスポーツ98年9月号広告:クロスカントリー連勝続く)

  そのころ、西松技術部長から連絡があった。

「アンカーの準備が完了しました。12月の発売に備え、備蓄生産に入ります」

[第5回]ティーザ広告最終回。トラックのフラッグシップモデル発売予告。すでにアンカーの知名度は高く、カタログ請求と予約受付開始する。

(サイクルスポーツ98年11月号広告:アンカー発売予告)

(4)

事前宣伝と並行して、アンカー販売体制は着々と構築されていた。

それまで、すべてのブリヂストン自転車は、地域の8販社を経て、全国2万店の系列自転車店に卸販売する仕組みであった。

横芝は、それがブリヂストンのスポーツ車に女性や子供向きのイメージが反映された原因と考え、アンカーは販社を通さず、小売店も限定して絞り込む、いわゆるクローズドチャネル戦略をとった。

本社に専門知識を持ったアンカー部隊を組織。部隊長は、かつてジロ・デ・イタリアに出走した藤倉文夫、部員はソウル五輪ロードレースで活躍した鈴木光弘たちである。

小売網は、プロショップ技術を持つ500店を厳選した。

(5)

ある日、台湾のメリダ創業者曽董事長から横芝に電話がかかってきた。

ブリヂストンは7~8年前まで、メリダの技術指導やMTBの生産委託をして、相互の関係は深かった。

数年前に取引がなくなると、メリダは日本販社を設立して、メリダブランドのスポーツ車の販売を開始していた。いわばライバルになっていた。

「これは、これは、曽さん、すっかりご無沙汰しています。突然、何事ですか?」

「横芝さん、折り入ってお願いがあります。一度、お会いできませんか?……」

横芝は曽と個人的にも親しかった。10歳ほど年上だったが、温厚な人柄に惹かれて、台湾に出張するたびに仕事を離れて付き合っていた。世界の自転車事情に詳しく、何かと教えてもらう仲だった。

  数日後、来日した曽が言う。

「ご存知の通り日本に進出しましたが、あまり売れませんね。ジャイアントも苦戦のようです。在庫が増える一方で、販社を撤収しようかと考えているところです。代わって、ブリヂストンさんの販売網でメリダ車を売っていただけませんか?」

 ブリヂストンを“さん”付けで呼ぶところに、人柄が現れていた。

「曽さん、もともと販社はブリヂストンブランドを売るためにつくられた組織です。そんな使命感を持つセールスマンたちが、他社ブランドを熱心に売るかどうか疑問です……」

しかし、と横芝は考えた。

近く発売するアンカーはいままでの販売網では扱わせない。だとすると、メリダ車は販社や系列自転車店の品揃えに役立つはずだ。

「わかりました。ぜひ販売させてください。また曽さんと仕事ができて嬉しいです……」

6)

98年12月、ついにアンカーは発売された  

高級スポーツ車のあらゆるジャンルを揃えた大規模なラインアップであった。

メインは4ジャンル、いずれもカラーチョイスができた。

・タイムトライアル
・ロード
・クロスカントリー
・ダウンヒル

さらに

・トライアスロン
・ケイリン
・トラック

価格はいずれも10万円以上、トップモデルは450.000円。

(車種体系説明パンフレットの冒頭部分)
(ロードトップモデル450.000円)

自転車だけでなく部品や用品もラインアップした。

(アンカーパーツ&アクセサリーカタログ)

発売1か月後、横芝は部下を集めた。

「みんなよくやってくれた。ティザー広告の効果もあって、すでにアンカーはマニアによく知られている。予約も多く、売れ行きは上々だ。この1年間は無駄ではなかったな」

「そうですね。今まで日本車を敬遠していた、欧米ブランド専門のチェーン店“Yロード”さえ、アンカーを展示してくれました」

  この年、アンカー効果もあって、ブリヂストンは史上最高益を上げることになる。

「だが、アンカーはクローズドチャネルだ。一般ルートで販売するミドルクラスのスポーツ車が必要だ。アンカーと違って販売台数を稼ぎたい……」

すでに、横芝は次のステップに入っていた。

世界選手権10連覇で有名な中野浩一選手とアドバイザー契約を結び、「スラッガー」とネーミングした量販を目指すスポーツ車を企画していた。

「ハイエンドイメージのアンカーと違って、こんどのスラッガーはブリヂストン表示を大きくしよう。その方が一般ユーザーには信頼感があるからね」

あのトヨタでさえ、70年代に自転車を販売したときは、トヨタブランドをつけて失敗した。トヨタ表示を引っ込めたレクサスは成功した、と横芝は話を続け、

「ブランド戦略とは難しいものだ。企業ブランドは恒久的に、商品ブランドは時代や商品に合わせ変化させることだね……」と、最後を締めくくった。

3年前