オーダー市場を独走する松下電器のPOS。追随する宮田・丸石。元祖の沽券(こけん)にかけて、長い沈黙を続けるブリヂストン。第一線から非難の声高まるなか、ついにブリヂストンは動いた。その名はテーラーメイド。真っ向勝負始まる。その結末は?
(1)
1987年暮れ─。
「ナショは、POSに7万円の廉価モデルを追加しました。ますます勢いづいて、うちの特約店に入り込んでますよ」
ブリヂストンサイクル東京販社の浜岡紀夫企画担当役員が、本社企画部長横芝正志を訪れ悲鳴をあげた。その声には、半年たっても何も対策しない、横芝への非難の響きがあった。
「問題ない!高級スポーツ車は、需要が一巡すると売れ行きが止まるものよ」
「確かに、当初は毎月500~600台あった注文が、ここにきて300台前後に落ちてるそうです。廉価モデルは、そのテコ入れですかね?」
「POSは設備投資をして一定の量産体制を敷いた。多機種少量生産のままでは採算がとれないはずだ。販売を増やす必要があるのよ……」
POS人気が高まるなか、横芝の消極姿勢は変わらない。
「しかも“廉価”と言っても、7万円のベース車にチョイスを加えれば8~10万円になる。その価格では、ナショさんが狙っているサラリーマン層の開拓は無理。下手すりゃ、先行の上級モデルと共食いになる。期待ほどには増えないかもね……」
(2)
1970年代、日本にスポーツ車生産技術はあったものの、多くが米国輸出向け。メーカーはスポーツ車の国内需要喚起の努力を続けていた。
その方策の一つとして、ブリヂストンは自転車に付随して使うパーツやアクセサリーをサイクル用品として発売した。「ロードマン」と命名して、用品専用ブランドを構築する新ブランド戦略だった。
パーツ・メーター・バッグなどの装着品、パンク修理のような手入れ用品、身に着けるウェア・シューズ・小物、さらにサイクリング地図まで品ぞろえした。
なかでもウェアは、伊藤忠ファッションシステム社と提携、ロードマンロゴをワンポイントマークにした、当時では珍しい本格的なものだった。

このサイクル用品の事業化は、ソフト面からスポーツシーンを演出し、完成車と一体となってスポーツ車需要を創造するマーケティング戦略でもあった。その後市場に現れたいろいろなパーツやアクセサリーの源流になった。
(3)
同じころ、大量生産品に飽き足らず個性化を求める需要が芽生えてきた。もともとマニアにはパーツを組み替える趣向がある。
横芝は考えた─。
自分の好きなパーツを選び “自分だけの1台”をつくる仕組みなら、スポーツ車需要を拡大できるのではないか?上級ライダーが増えれば一般需要も増えるはず……。
ベース車にフレームサイズやパーツを組み合わせる、業界初のチョイスシステム車を発売した。車名は用品ブランドと統合して「ロードマン」と名付けた。

ロードマンは好評で、パーツやアクセサリーはよく売れた。だが、肝心の自転車本体は期待ほどには伸びない。一般のスポーツ好き需要が育たない。
そのころ市場では、フフラーシャーなどの電装品をつけたジュニアスポーツ車がよく売れていた。やり方を変えれば、一般の青少年向けスポーツ車需要が喚起できる……。
そこでマニアにこだわらず、量販化を狙ってロードマンの大幅なモデルチェンジを敢行。売り物のチョイスシステムを廃止、ラインアップを単純化した。

まず、新開発の12段変速機「クリマチック」を看板に掲げた。
当時の変速機はマニア向け、ギアチェンジに微妙な操作を必要とした。クリマチックはカチカチ音とともに、 誰でも確実に変速できるオートマチック変速機、電装スポーツ車の自動車をまねたコンソールボックス型を進化させたものだった。
さらに、価格は5万円を切る49.800円に1本化。のちに“ヨンキュッパ”と言い慣わされて、スポーツ車の水準プライスになった。
発売にあたっては、大赤字を覚悟の上でテレビスポット広告を集中投下、知名度を一気に上げる作戦を展開した。


狙いはものの見事に的中して一般の青少年に大ヒット。軽快車やミニサイクル一色だった大人自転車市場に、新しい量販スポーツ車の王者が誕生した。
ロードマンは、その後10年にわたってロングセラーを続け、ワンブランドで史上最も売れたスポーツ車になる。
だが用途は、純スポーツはおろか街乗り用も少なく、多くが高校通学などの実用であり、スポーティな軽快車の趣さえあった。
「浜岡さん、あのロードマンでさえ、純スポーツ需要を創造できなかった。チョイス車でも駄目、量販車はもっと駄目、マニア需要拡大にはまだ10年はかかるよ……」
それほど、高級スポーツ車拡大は至難な命題であった。
(3)
そのロードマン体験が邪魔してか、横芝はどうにもPOSに素直になれない。
─年が明けた88年、また浜岡紀夫がやってきた。
「いよいよ、宮田も、丸石も、POSを追随しました」
宮田は接着フレームの「MOC」(ミヤタオーダーシステム)、丸石はユーザーがデザインする「マルイシ014システム」を発売した。松下のようにコンピュータによる本格体制ではない。
「しょせん、後発組は売れませんよ。真似すりゃいいってもんじゃない。チョイス部品の不活動在庫が増えるだけだ……」
横芝は素っ気なかった。
さらにPOSは、シティサイクルのカラーオーダーや、ATBをラインアップ。アメリカ市場にもPOSを輸出。盛んに膨張を続けた……。
日増しにPOS対抗を望む声が高まり、販売網防御のためにも必要になってきた。
─ようやく横芝は決意した。
後発になったからにはPOSと違うものにしたい。そのためにはアレだ。アレを使おう。どうせ大量に売れるものじゃない、遊び心でやってみるか……。
(4)
88年10月ブリヂストンは、オーダーシステム「レイダック・テーラーメイド」を発売した。POS発売から実に1年半も遅れていた。
─業界新聞各紙は、はやし立てた。
「これまで新製品で常に業界をリードしてきたブリヂストンが、ことオーダーシステムは、最後発になった」と……。
新製品競争に不敗を続けた横芝は、ついに一敗地にまみれたのだった。
テーラーメイドの仕組みはPOSとほぼ同じ。大きな違いは、任天堂の「ファミコン」を使うことだった。簡易コンピュータだから、店頭でPOSをはるかにしのぐ無数の組み合わせができた。

実はこのとき、任天堂と組んで、テレビにつなぐ新しい健康機器「FFS」(ファミコン・フィットネス・システム)の開発を進めていて、テーラーメイドはその応用であった。

テーラーメイドの位置づけを、当時の主力スポーツ車「レイダック」のなかに入れ、イメージモデルとして量を追わないマーケティングを展開した。“無限に近い組み合わせ”とハッタリを掛けたが、オーダー車の量的限界を見極めての作戦だった。
POSが月間平均販売1.000台を超えて伸長するなか、遅ればせながらテーラーメイドは、発売1カ月でPOSに激しく迫り、取扱店も1.500店を超えた。
それは商品力より、むしろ販売力の強さの証明であった……。
(5)
テーラーメイドからさらに半年遅れの89年4月、浜岡から電話があった。
「ようやく日米富士が発売しました。これで大手5社が勢ぞろいしました」
「いまさら?」
その後5社入り混じっての激戦が続いた。自転車店の獲得競争は熾烈を極め、果てしない戦いが繰り広げられた。
─ところが、舞台は暗転する。
90年代に入ると、バブルの崩壊とともにデフレ時代に突入、大量の超廉価輸入車が市場に溢れ、拡大していた高級スポーツ車需要は一転して消滅した。
宮田・丸石・日米富士は早々と撤退した。
テーラーメイドはファミコンチョイスそのものを中止、オーダー技術は高級スポーツ車「アンカー」に組み入れた。IT時代到来にはあまりにも早すぎたのだろう。
現在は、フレーム・パーツ・カラーチョイスにより「アンカーオーダーシステム」として続いている。

松下電器自転車事業部は、製販合併によりパナソニックサイクルテックと社名変更されたが、POSも規模を縮小しながら継承され、 “30年以上続く”「カスタムオーダー」「フレームフルオーダー」として健在である。

─20世紀末の高級スポーツ車に一時代を築いたPOSと、それに挑んだテーラーメイドなど5社を巻き込んだオーダー戦争は、今もなお語り継がれる自転車史上まれにみる激戦であった……。