トライアスロンに力を入れるブリヂストン。米国プロ選手との契約に動いた。しかも2人も……。日本ではまだ、トライアスロンは知られていない。が、そこには大きな狙いが秘められていた。過ぎ去ったスポーツバイクの歴史をひも解く……。
(1)
ときは1985年7月、ところは米国西海岸ロングビーチのスシバー大阪ずし 。
「男子選手は誰がいい?」
ブリヂストンの企画部長横芝正志は、トライアスロン女子プロのジュリー・モスと寿司をつまんでいた。ジュリーはほんの1か月前、日本のアイアンマン琵琶湖で女子優勝して帰国したばかり。
「そうねえ……。やはり4人のうちの誰かだわね……」
4人とは、トライアスロン“米国4強”といわれた、デイヴ・スコット、スコット・モリーナ、スコット・ティンリー、マーク・アレンのこと。
「なかでもデイブは強いわね。でもユーの“狙い”なら、スコットもいいわね……」
デイヴはハワイアイアンマン4回優勝(その後2回)、先の琵琶湖でも総合優勝した強豪。日本でも知名度が多少あり最適かも知れない。
ジュリーの言う“スコット”とはスコット・ティンリーのこと。4強のうち3人までもがスコットという名がついている。紛らわしいから以降 “ティンリー”と書く。
ティンリーは3年前のハワイアイアンマンで初優勝。ジュリーには、その大会で倒れながら這ってゴールインして有名になった曰くがあった。
余談だが、のちにジュリーは4人のなかのマーク・アレンと結婚する。思うに、この時はまだ恋仲ではなかったのだろう。
「ティンリーも、私と同じヴェジタリアンよ」
—話題は寿司ネタに変わり、ジュリーはそのころ米国ではやり始めた“カリフォルニア・ロール”と呼ぶ、アボガド巻が好きだと言う。
ティンリーも、のちに聞いたことだが、肉類は避け、野菜・豆・ポテト類、栄養豊富な小麦ふすまや胚芽入りパンを選んで食べるそうだ。長丁場のレースは水とバナナと乾燥いちじくだけで戦い抜くという。そんなものかと感心する。
スシバーの店内を見渡すと、どんぶりの白米に醤油をかけて食べている米国人もいる。
そうか、寿司も異国に根づいている。トライアスロンも今は米国だけだが、いずれ日本でも人気になるに違いない、と横芝はうなずき、そして言った。
「オーライ……デイブかティンリーのどちらかね……」
(2)
横芝が渡米した目的はトライアスロンのアドバイザー探しだった。宣伝のイメージキャラクターにも起用したい。一般的な知名度はなくても、強くざん新なイメージがあればよい。男女1人ずつ2人の選手を探した。
女子はジュリーで決まり。しなやかなライディングスタイルは人目を惹くはず。
男子選手が1人欲しい。
横芝は迷う—。
確かにデイヴはナンバーワンだ。ティンリーはまだデイヴに敵わないが、アイデアマンとの評がある。聞くと、ハンドル形状やスポーク本数へのこだわりを述べた。インテリらしくクールで筋肉質な容姿もテレビ宣伝に向いている。
(ティンリーの著書「ティンリートーク」表紙:まんだらけ出版)
—ようやくティンリーと契約した。
すると幸運なことに、ティンリーは直後の85年第9回ハワイアイアンマンで2度目の優勝を果たした。幸先がよいな……。
だが、その数カ月後になされたプラザ合意による円高が、やがて横芝の目論見に打撃を与えるとは、その時は思いもよらなかった
(3)
1970年代半ばから日本の自転車産業は、2度にわたる石油ショックと対米輸出激減により、需要半減の大打撃を受けていた。
その打開策として、ブリヂストンは新需要創出のためにスポーツ車戦略を進めた。
当時のスポーツ車は、サイクリングやロードレース用のマニア向けと、外観はスポーツ車の形をしているが実態は通学用の中高校生向けに2極分化していた。だから本格的なスポーツバイクの需要は少ない。
そうした需要傾向に従い、マニア向けにロードレースを開催、青少年向けには電装部品や変速機の付いたスポーツモデルを開発した。80年代半ばには、この2つのグループはドル箱商品になっていた。
残る課題は一般成人をスポーツ車に乗せること。日本では男女ともミニサイクルや軽快車に乗り、欧米のようにはスポーツ車に乗らない。
—どうすれば乗るか?
この課題解決のために誕生したのが、トライアスロン・プロジェクト(略してTPJ)であった。
言うまでもなく、トライアスロン専用バイク開発には新技術が要る。需要が少なく生産がミニマムロットに達するかも疑わしい。アドバイザー起用にも金がかかる。
海のものとも山のものともつかないトライアスロンに多額の投資をするのは時期尚早、との反対の声もあった。
だが、TPJにはトライアスロンだけではない、大きな狙いが秘められていた……。
1つは、これからのスポーツバイクの素材や工法に、新しいテクノロジーを取り入れること。
もう1つは、健康づくりに役立ち、通勤にも使える新需要を創出すること。
横芝はこの実現のために闘志を燃やしていた。
(4)
もともとブリヂストンには、競輪用自転車の製造技術があった。工場レーシングチームを持ち関連ノウハウもあった。ハイレベルのマニア向けグランヴェロシリーズを開発した技術もあった。
これら蓄積した技術に、米国アドバイザーの実戦からのアドバイスを加え、早くも85年暮れに日本初のトライアスロン専用モデル「マイル112」を発売した。新製品開発としては異例のスピードだった。
(1985年日本初のトライアスロン用「マイル112」)
マイル112は、フレームスケルトンやケプラーベルト入りタイヤなどに独創性があったが、フレームはまだクロモリ鋼だった。さらなる進化を求め、新素材カーボンフレームに挑戦していった……。
(5)
新開発はカーボンにとどまらずアルミ技術にも及んだ—。
(接着工法による新アルミフレーム)
新接着工法によるオールアルミ、アルミとクロモリのハイブリッドフレームが開発された。トライアスロンにとどまらず、新素材・新工法によるハイレベルなロードバイク生産体制が整った。
—そこで新たなブランド戦略を打ち出した。
総合ブランドは「レイダック」(RADAC)と名付けられた。レイダックとは接着工法に使う接着剤の名に由来している。
(レイダックのロゴ)
レイダックの車種体系はそれまでのロード系モデルを集大成、トライアスロン「マイル112」もここに結集した。
全車種を数えれば、7モデル、サイズ29。価格239.000~59.800円のスポーツ車としては例のない大編成だった。フレーム単体販売もあった。
—そのなかに“フィットネススポーツ”という新カテゴリーをつくり、日本初のフィットネス用バイク「レイダック」を発売した。
(1987年日本初のフィットネスバイク「レイダック」)
フィットネス理論は、自転車研究の先覚者であり医学者でもあった鳥山新一の提唱した“自転車健康法のためのバイコロビクス理論”に基づいていた。
(鳥山新一の自転車医学理論「バイコロビクス」)
(注)鳥山新一については、弊著「自転車物語Ⅱ・バトルフィールド」」(八重洲出版)第4章を参照。http://www.jitenshamonogatari.com/2017/10/23/book2/
理論の裏づけのあるフィットネスバイクが完成すると、ティンリーとジュリーをキャラクターに、自転車を健康づくりに使うキャンペーンを開始した。
(ティンリーとジュリーを起用した宣伝活動)
テレビCM撮影にはロスアンジェルス・ロケを敢行した。オフィスから帰宅したティンリーが軽装に着替えレイダックに乗るストーリーである。有名ではないが、しなやかな筋肉質の男の風貌が静かな人気を呼んだ。
かくて一般成人をスポーツ車に乗せるために、トライアスロンをシンボルに技術と理論と宣伝が三位一体となった戦略が展開された。
—これこそが、TPJの真の狙いであった。
(6)
87年、第3回アイアンマンジャパン琵琶湖が開催された。
アイアンマンで活躍するジュリーモス)
ティンリーとジュリーはカーボンレイダックに乗り出場した。
ティンリーは他を寄せ付けぬ力強い総合優勝だった。
ジュリーはようやく力をつけてきた日本男子選手に遅れをとったが、堂々の上位入賞であった。
時あたかも日本は高度成長の真っ只中。トライアスロンのイメージとともに、レイダックフィットネスの将来は洋々としていた……。
だが舞台は暗転する—。
90年代初頭、プラザ合意による円高とバブル経済の破綻とともに、日本の自転車産業は壊れていった。
中国からの廉価ママチャリの大量流入と駅前放置車の山のなか、自転車の価値感が下落、スポーツ車の人気は衰えた。レイダックとても例外ではなかった。
新しいロードバイクの流れが再びできるまでには、さらに10年の歳月が必要であった……。