志村けんと自転車

志村けんさんがコロナ禍で亡くなった。ニュースは日本中を駆け巡り哀悼の声が溢れている。

志村けんさんと自転車業界の関わりはあまり多くはない。だが、若き日の志村けんさんは自転車の新需要創造に貢献している。

(1)
私の仕事部屋に、1枚のカラー写真パネルが飾られている。

 (阪神タイガース姿の志村けんとドリフターズ)

若き日のドリフターズのメンバー5人が、それぞれ好みのプロ野球5球団のユニフォームを着てVサイン、得意のポーズを決めている写真である。

リーダーのいかりや長介が、黒い英文字をオレンジで縁取った巨人ジャイアンツのユニフォームを着て、澄まして中央に収まっている。

その右に志村けんが、黄色と黒のたて縞の阪神タイガースのユニホーム姿で、目を大きく剥き顔を突き出している。

左側には加藤茶が、赤くブレーブスと入った阪急のユニフォームに身を固め、口を大きく横に開いて笑っている。

後段には高木ブーと仲本工事が、それぞれ中日ドラゴンスと広島カープのユニフォーム姿で並んでいる……。

この少し色褪せた世に二つとない、古い写真にまつわる当時の記憶を話そう—。

(2)
半世紀も前のことである……。

モータリゼーションの進展により自転車市場は実用車需要が激減、メーカーは存亡の危機を迎えていた。

その打開策の一つは、ベビーブームで人口増が見込まれる小中学生に自転車を乗せることであった。それはビジネスだけでなく子供たちの健康づくり、スポーツ育成に役立つ社会的意義もある。

ところが当時の子供車は、大人車をダウンサイズしただけの、子供にとって魅力のない自転車である。しかも価格は大人車の半分という慣習があり、メーカーは力を入れない。だから子供たちは自転車に乗らないし欲しがらない。

(大人用実用車を小さくした小学1~2年用子供車)

—そこでメーカーは、まずは就学前の幼児から、とばかり新しいマーケティングを展開した。

ピーターパン・仮面ライダー・キティちゃんなどの人気キャラクターを付け、3歳児から乗れる玩具性の高い幼児車を開発した。これが大ヒットになり爆発的に売れ、小学低学年までの多くの子供が自転車に乗った。

(仮面ライダー12インチ幼児車)

だが、それより年上の小学高学年~中学生は、漫画や劇画から生まれたキャラクターを自転車に付けても馬鹿にするだろう。

では、どうする—?

(3)
少年に人気の高いプロ野球に着目、野球と自転車を結びつけた—。

少年ファンを対象に、セ・パ両リーグ12球団の野球イメージを表現した新しい少年車の開発にとりかかった。これをヒットさせて、大人になったらスポーツ車につなげる戦略でもあった。

—プロ野球をイメージした自転車をつくるには?

全球団と個別に交渉した。

商品化権とは、キャラクターを商品や広告に使用する権利である。だが商品化権には、知的財産権としての法的保護がなく登録もできない。他人の商品化を防ぐためには、商標権・著作権・意匠権などを登録して権利を守る。

今日でもそうだが、当時はなおのことわかりにくい権利であった。球団グッズもない時代だから、球団に話しても何のことやら判然としない。やむなくこちらが説明を繰り返えす……。

一般的な商品化権のライセンス料は、商品1台毎に小売価格の3~5%を販売実績に応じて後払いする。ライセンス料は原価算入され小売価格に上乗せされるから、権利受諾者の負担はない。実質的にユーザーの負担になる。

しかし自転車は高額商品である。3%も上乗せすれば小売価格が高くなり過ぎる。それでは少年たちに申し訳ない。

そこで、ライセンス料について別の提案をした—。

年間使用料として1年毎に一定額を前払いする。広告費として経費処理して小売価格には反映させない。球団は売れなくても毎年一定額が保証される。こちらは売れなければ前払い分を損するが、ヒットして一定台数を超えれば利益が大きくなる。

野球車が実現すれば、球団のファンづくりにも、子供に自転車を乗せることにも役立つ……。

ややギャンブル的な提案だったが、東・阪・名・福岡と、バラバラにある12球団を個別に口説き、どうにか全球団と定額方式の契約ができた。

(4)
ようやく試作車ができた—。

車名は「ヤングリーグ」と名付けた。セリーグは6球団毎に、パリーグはまとめてパリーグ号とした。小中学生の体格に広く合わせるため車輪サイズは18と20インチを揃え、スポーツ性のある外装5段変速機付き車種も企画した。

車体を各球団のチームカラーに塗り、球団ロゴやマスコットマークを入れ、野球に関連する部品を装着した。いかにも野球少年受けする独創的なデザインであり、スポーツ感覚も備えていた。

(少年スポーツ車「ヤングリーグ」巨人ジャイアンツ)

(ヤングリ―グの各球団車と野球をイメージした部品)

(5)
準備はできた。広告をどうするか?

差別化商品はテレビ宣伝が決め手になる。インパクトのあるタレントを起用したい。プロ野球なら野球選手、と誰しも思うが、当たり前すぎて面白くない。12球団にまたがる人気選手1人だけを選ぶことも難しい。

—そこで思いついたのが、ドリフターズの起用である。

ドリフターズは子供から大人まで人気の幅が広いタレントである。少年車を卒業すれば、ジュニアスポーツから大人車需要につながる。

難点はギャラだった。それ以外にも球団使用料を払わねばならない。CM料も必要だ。合わせれば先行投資が巨大になる。いくら売れたとしても、少年車ではとても採算に合わない。失敗すれば責任問題になる。

だが、思い切ってやろう。子供需要の開拓は絶対に必要な課題である。少年車の成功は子供車全体に広がる。そもそも子供が自転車に乗ることは喜ばしいことだ。ドリフターズ事務所にも事情を話して協力してもらおう……。

(6)
ドリフターズとの契約が成立した—。

さっそくCMを撮影することになり、スタジオに行き現場に立ち会った。

CMの台本はいたって単純だった。ドリフターズの5人がそれぞれ好みの球団のユニフォームを着て、奇声をあげながら、遠くに置いてある野球車に向かって匍匐(ほふく)前進するだけである。

もちろん、CMとはいえシナリオがあり、ディレクターもいる。

ところが、最初はスタッフの指示に従っていたドリフターズの面々は、すぐに違う意見を言い始めた。

志村けんが、ここはこう変えよう、と言う。加藤茶は別のギャグを出す。それをいかりや長介がまとめ、皆がすぐに演じてみる……。

たちまち、ざん新なCMができ上がった。ドリフターズの個性が野球車を引き立てている。これならヒットできるだろう。

—皆で仕事をする。これがドリフターズの人気の秘密だ、と心から思った。

(7)
CM完成後、ドリフターズのメンバーと会食した。

「プロ野球をテーマに自転車をつくるアイデアには感心しました。さぞ苦労されたでしょうね……」

一番年下の志村けんがそう言うと、おもむろに1枚の写真パネルを取り出した。どうやら撮影後にわざわざ別撮りしたらしい全員の集合写真である。人気テレビ番組“8時だよ、全員集合”のポスターに似せたらしく、5人が顔を寄せている。

志村けんは手早く写真にサインをすると他の4人に回した。手元に帰ってきたサイン入り写真を私に手渡しながら、志村けんらしからぬ穏やかな声で言った。

「ヒットすればよいですね。子供たちも喜んでくれるでしょう……」

(8)
1977年、ヤングリーグが発売された—。

テレビ放映料がまだ安い時代とはいえ、子供車としては過大な3億円ものテレビスポットを集中投下、思い切って勝負に出た。

結果は初年度からいきなり5万台の大ヒットとなった。なかでも巨人と阪神がよく売れた。それでも先行投資は重かったが、球団使用料は楽に賄えた。

さらに78年には、もっと年下の子供を狙い16と14インチの「ドレミリーグ」をラインアップに追加発売した。まさに野球車の勢ぞろいであった。

(年少用のドレミリーグ)

その後、その流れはフラーシャーや変速機付きのジュニアスポーツ車に広がり、全国の多くの子供たちに流行した。さらにそれは、大人たちのスポーツ車へとつながっていった……。

(当時流行のスーパーカーを模した電装ジュニアスポーツ)

(9)

ドリフターズの人気は急上昇していた—。

CM撮影の3年前、メンバーの1人だった新井注がドリフターズを脱退、代わって付き人だった志村けんが昇格、その後“東村山音頭”が大ヒット、志村けんは一躍スターダムに躍り出ていた。

この人気をほっておく手はない、とドリフターズを野球車だけでなく自転車全体の宣伝キャラクターに起用した。

(1977年 ドリフターズを起用した春需キャンペーンの新聞広告)

“ブリヂストンだよ、全員集合!”と題して、テレビ・新聞・雑誌に露出する大キャンペーンをはり、需要の集中する3~4月のお祭りムードを高め、春需商戦に圧勝した。

その後志村けんは、いかりや長介亡きあともドリフターズとして活躍、今日に至るまでコメディアンとして国民的人気が続いていた。

—志村けんさんの訃報に接し、改めて壁に飾ったドリフターズの写真を眺めた。そうか、あれからもう40年も経ったのか……。

その写真は私のお宝になっている。

3年前