1970年代後半、日本の自転車産業は、輸出激減と廉価車増大により破綻の危機に直面していた。打開策の一つとして、スポーツ車振興が喫緊の課題となり、新たな目標としてトライアンスロンへの挑戦が始まった……。
(1)
「アイ・ドント・イート・ア・レッドフィシュ……」
1985年6月のある日、東京銀座の寿司屋のカウンターで、ジュリー・モスがブリヂストンの横芝正志企画部長に言った。
寿司ネタの白身の魚介類は食べるが、マグロやカツオのような赤身の魚は食べない、という意味らしい。
「食事はいつも野菜中心ね。肉もホワイトミート以外は食べないわよ」
色の白い鶏肉は食べるが、牛肉や豚肉は赤身だから食べないと言う。
まだ、ベジタリアンという言葉が一般化していない時代のこと。横芝にはその効用が理解できない。
「肉食抜きの食事制限をしていて、トライアスロンのような過酷なレースのスタミナがよく続きますね?」
ジュリーはトライアスロンの米国女子選手。数日後に開催される日本初の「アイアンマンジャパンin琵琶湖」に招待され来日した直後である。
レースの抱負を聞くと、
「米国の男子招待選手にはとても敵わないわ。でも、女子の部では優勝したいわね。ミーはスイムが苦手、最初は遅れるかも知れないが、後半追い上げて、できれば日本の男子選手にも勝ちたいわね……」
ジュリーはどんなにごつい猛女かと思われるが、金髪がかった栗色のショートヘアの愛くるしい25才の美人である。身長170omそこそこの細くしなやかな体つき、これで男をもしのぐアイアンウーマンとはとても思えない。
トライアスロン発祥の地カリフォルニア・サンディエゴの大学で、運動生理学を研究したジュリーは言う。
「トライアスロンは持久力の競技よ。日本のスモーのような瞬発力は必要ないのよ。赤い肉を常食する選手は、トライアスロンではあまり強くないわね」
それから延々と、ジュリーの講義を聞くことになった……。
酸素を体内に取り込む有酸素運動が健康的な体力づくりに重要。最大酸素接収量(=VO2MAX)が大きい効果的なスポーツは、ランニング・水泳・自転車乗り、ボート漕ぎの4つの長距離持続走。そのうちの3つを取り入れたトライアスロンは、理想的なスポーツだと言う。
「……だから、ユーもやりなさいよ」
「とても、とても……。ミーはゴルフクラブを振り回すぐらいが精一杯。そもそも、牛肉が大好きだからやる資格がありませんよ」
ジュリーはいたずらっぽく笑った。
「私だって、色が白くてもオクトバス(たこ)は嫌いよ。悪魔の使いだから……」
(2)
当時22才の大学生だったジュリー・モスを一躍有名にしたのは、1982年ハワイ・コナの第5回アイアンマンレースである。
ゴール残り400メートル地点まで走ってきたジュリーは、力尽きコースに倒れ伏した。しかし、再び立ち上がると走り出し、また倒れては起き上がる。観衆の大声援に後押しされながら、最後は手で這ってゴールラインを超えた。
この闘志あふれる感動的なシーンが全米にテレビ放映され、ジュリーの可憐な容姿と相まって、トライアスロンというニュースポーツは一躍有名になった。
トライアスロン(triathlon)とは、文字通り3つ(=トライ)の競技(=アスロン)をするスポーツ、水泳・自転車ロードレース・長距離走の3種目を1人が連続して行う耐久競技である。1974年にサンディエゴで世界初の大会が行われた。
(スイム・バイク・ラン3種を連続する競技。写真:ウィキペディアより)
その後78年に、ハワイの米国海兵隊員が一番速い男を競って始めたといわれるのが、アイアンマン・トライアスロンである。
スイム3.8km/バイク180km/ラン42.2km、全長220kmを一人で走り抜く過酷なレースであり、その後アイアンマン選手権へと発展している。
82年、この3種目を短縮(スイム1.5km/バイク40 km/ラン10km、全長51.5 km)した国際基準が設定され、2000年シドニーオリンピックから正式種目になる。
日本でも81年に初のトライアスロンが、鳥取・米子の皆生で全長100kmのコースで開催され53名の選手が参加、歌手の高石ともやが優勝するなど話題になった。
その後、湘南・小松・久留米などでも開催されていたが、トライアスロンといってもまだ一般にはほとんど知られていない。
このたびの琵琶湖アイアンマンの直前の4月には、沖縄・宮古島で日本航空後援のロングディスタンス・トライアスロンが開かれ話題になっていた。琵琶湖の関係者は皆、この宮古島に優る大会にしたいと願っていた。
(3)
数か月前、かねてから面識のある広告代理店電通のスポーツ文化事業部西郷隆美が、太ったからだを揺らしながら横芝を訪ねてきた。
「このたびアイアンマンの開催権をとりました。滋賀県の協力を得られたので、琵琶湖でレースをやりたいのですが……」
西郷の依頼は
「地元の近江発祥企業ヤンマーディーゼルと、自動車タイヤ彦根工場のあるブリヂストンがスポンサーする予定です。ブリヂストンサイクルからもメカニックチームを琵琶湖に派遣してくれませんか?」
かねがねトライアスロンバイクに関心を持っていた横芝は、商品化の情報収集兼ね、技術部隊を送ることを快諾した。
(4)
1985年6月30日朝7時、武村正義滋賀県知事の号令とともに、アイアンマンジャパンがスタートした。
当日は台風接近の悪天候のなか、5.000人余の観衆に見守られ、432名の選手が琵琶湖を泳ぎ出した。いつもよりはるかに水温が低く、たちまちリタイア47名が現れる。
横芝たちは、スイムゴール地点にある彦根プリンスホテルに陣取り応援する。前日は選手で賑わっていた、近くのメカニックテントからも声援が飛ぶ。
スイム3.8kmのトップを争うのは、米国4強のうちのアイアンマン3連勝デイヴ・スコットと強豪スコット・モリーナの2人、ほぼ同時にゴールする。残念ながらジュリー・モスは、日本の男子選手にも遅れ、9番目に水から上がる。
次は長丁場のバイク180km、前半は湖岸を走る平坦路でスピードが出せるが、後半は山道を上り下りする難コースである。
降りしきる雨のなか、スコットとモリーナが抜きつ抜かれつの接戦を繰り返し、モリーナが僅差でトップである。
42.2kmのランに入ると、走りが得意なスコットがモリーナをかわし17km地点でトップに立つ。そのまま独走して、ハワイ大会記録を14分余ほど凌ぐ8時間39分56秒の好タイムで優勝。遅れていたジュリーは日本男子選手を追い上げ、10時間04分53秒で堂々の総合3位であった。因みに日本女子トップは総合101位だった。
(雨の中ゴールインするジュリー・モス)
4位に入ったのは、ブリヂストンサイクルチームから自転車部品サンツアーチームに移籍した城本徳満。スイムで大きく出遅れたが得意のバイクで挽回した。のちに城本はプロに転向、今はトライアスロンショップを経営している。
夜になると、風雨は激しさを増し道路は真っ暗になった。ずぶぬれになりながら、午前0時の打ち切りまでに完走した選手は366名であった。
(5)
翌日帰京したジュリーはテレビに出演、日本男子選手に勝ったアイアンウーマンとして紹介され人々の話題になる。
横芝は、琵琶湖の経験を踏まえトライアスロンバイクの商品化を決意した。だが、日本ではまだ商業ベースに乗らない、新しいマーケティングが必要だと考える。
1月後、その立案のために米国に出張した……。
(続く)