流転のロード/ 安住の地を求めて

1977年10月、日本初の富士スピードウェイ・F1自動車レースは、死傷者7名の大事故となり、その後の10年間中止になった。当日開催された自転車ロードレースも、その後2度と開かれることはなかった……。

それでも関係者たちは、スポーツ車振興のために、自転車レース開催の努力を続けていた……。

 

(1)

レースの翌朝、ブリヂストンの企画部長横芝正志は新聞各紙に目を通した。報道はF1事故に集中、期待していた自転車レースの記事はどこにもない。

FI便乗広報は失敗だった、と落胆する横芝。そこに1本の電話がかかってきた。

「日刊スポーツです……」

取材かな?受話器をとる。が、違っていた。それ以上の朗報だった。

「1カ月後に、自転車ロードレースを開催したいのですが……」

当時のスポーツ新聞は各紙ともプロ野球一辺倒。サッカーやマラソンなど他のスポーツは読者受けせずあまり報道しない。まして自転車競技は、ギャンブルとしての競輪を除いて、記事にならない。

日刊スポーツの急な依頼とは  

これから報道として、野球中心でなく、いろいろなスポーツを扱う。なかでも日本ではまだマイナーだが、ツール・ド・フランスなど世界では人気の高い自転車競技を、他紙に先駆けて力を入れる。すでに事業として自転車ロードレース開催を決めた。しかし、レース運営のノウハウを持つ企業が見当たらない。F1自転車レースを開催したブリヂストンに白羽の矢を立てた、とのことである。

「是非、協力いただけませんか?」

横芝は即答した。

「一緒に新しい大会を起ち上げましょう!」

F1広報が不発だっただけに、横芝の胸中に喜びが湧いてくる……。

 

(2)

日を変えて、横芝は日刊スポーツの担当者と打ち合わせをした。

「主催に、ブリヂストンも加わっていただきたい」

「……主催に自転車メーカーが入ると、参加選手が減る懸念がありますね。レース振興の狙いからはマイナスでは?この前のF1は例外でしたよ」

担当者は戸惑う。共催形式を考えていたからだ。

「社会性のある新聞社なら単独主催がよいのでは?ブリヂストンは後援がよいでしょう。主催並に協力しますよ」

「競技運営は?」

「アマチュア自転車競技連盟のような競技団体に依頼しましょう」

そんなやり取りの末に、レース名に「ブリヂストンサイクル杯」という冠タイトルをつけて、立場は「協賛」にした。今では一般的だが、当時は少ない形式であった。

  問題はコースである。

警察の道路使用規制が一段と難しくなり、公道競走は簡単に許可されない。だが、日刊スポーツはさすがに情報通、意外な場所を見つけていた。

それは箱根の観光有料道路「芦ノ湖スカイライン」。私有だから警察の許可は不要、全長10.7kmを貸し切ってやろうという。

そうか!その手があったか!横芝も喜んで賛成する。

(芦ノ湖スカイラインの有料入口 同社HPより)

当時、芦ノ湖スカイラインは藤田観光が経営していたが、現在はNIPPO(旧日本鋪道)傘下である。NIPPOは競輪場の舗装を95%以上独占していて、有力な自転車チームも持っている。後日横芝は、NIPPOが富士スピードウェイのコースも舗装したと聞き、不思議な因縁を感じたことだった。

 

(3)

1977年11月26日(土)、F1レースから1ヶ月後  

「第1回ブリヂストンサイクル杯・日刊スポーツサイクルグランプリ」と命名されたロードレースが、芦ノ湖スカイラインで華々しく開催された。

(芦ノ湖スカイラインは御殿場と箱根・伊豆を結んでいる。同社HPより)

 

「自転車レース開催中のため、自動車は午前12時まで通行できません」と、料金所に張り紙がある。

  レースが始まった。

横芝たちみんなは、こんどこそアクシデントがないように、と願っていた。だが、またまた予想外のトラブルが待ち受けていた……。

コースは短い距離である。上位グループの選手たちが、1時間も経たないうちに料金所付近に設けたゴールを次々に走り抜けた。

それが途切れると、姿を現す選手がまばらになり、予想以上に時間がかかっている。コースは坂が多い。初級クラスの選手にとって、上りはきつく下りは怖くてスピードが出せないようだ。締め切りの12時になっても、まだ数10人の選手がゴールに入ってこない……。

  そうこうするうちに、料金所付近で騒ぎが始まった。

ゲートが開くのを待つ自動車が並び始め、すぐに数珠つなぎになった。若者たちが早く入れろ!と罵声をあげ、料金所に押し掛ける。当時はカーレースの全盛期であり、自転車レースなど若者の眼中にない。

選手がまだ残っている。打ち切り時刻が過ぎたが自動車を入れられない。クラクッションを鳴らす若者たちを懸命に抑え続けた……。

レースは成立したが、翌年から芦ノ湖スカイラインを利用できなくなった。横芝にとっては、F1に続く2度目の挫折であった……。

 

(4)

日本の自転車レース史は古く、第2次大戦前は人気スポーツだった。

1897年の上野不忍池周回コースから始まり、長距離ロードが盛んになって自転車競技は見るスポーツになる。明治末期には、全国の主要新聞がこぞってロードレースを開催、国民的人気を呼ぶが、第2次大戦で灰燼に帰した。

戦後は苦難の連続だった。隆盛な競輪のギャンブルイメージの陰になり、マイナーなスポーツになっていた。大掛かりなレースは数えるほどだった。

1947年の東京大阪間「ツーリストトロフィー」から始まり(2年で終了)、「全日本実業団対抗」「東京都社会人」「琵琶湖一周」などがあった。また52年から今も続いている埼玉の「秩父宮杯」(宮杯とも呼ぶ)のような市民レベルのレースもあった。

64年東京オリンピックが開催され、にわかに自転車競技に陽が当たる。しかしメダル候補と言われた個人ロードの大宮政志選手が、善戦むなしく転倒事故に巻き込まれ、日本は全部門で入賞さえ果たせなかった……。

その後、自動車の増加による道路事情や警備問題、資金難から、年を追う毎に開催が困難になり、たびたび中止に追い込まれた。

  なかでも「東北一周」は戦後最大のレースである。

52年から始まった「三笠宮杯東北一周自転車競走」は、東北6県1.000kmを5日間で走る駅伝方式だった。宮城の地方新聞・河北新報のバックアップにより、東北の年中行事になっていた。

67年に運営難に陥った。ブリヂストンに後援依頼が持ち込まれ、横芝は喜んで引き受けた。72年ステージ方式の「東北自転車競技選手権」に引き継がれるまでの5年間、ブリヂストンは支援を続けた。

  真夏の陽炎に燃えるみちのくを走り抜ける選手たち、銀色に輝くロードレーサーの群れ、沿道で声援する多くの人々……日本版ツール・ド・フランスの趣さえあった。

横芝は先導車にカメラ班と同乗、その姿を撮影して映画「闘魂」を制作、広報として全国にバラまいた。今どこかに残っていればお宝物だろう……。

74年からは「三笠宮杯東北地域自転車道路競走」と名を変え、92年まで連綿と続く。

93年から「三笠宮杯ツール・ド・とうほく」と衣替えして継承されていたが、2007年中止になった。

翌08年には、東北から自転車の火を消すなと、地域を狭めて「みちのくステージレースinいわて」の名で若手育成の道を残していたが、1年だけで終わる。

それ後空白期間を経て、13年東北大地震復興支援を使命として、河北新報がヤフーとの共催「ツール・ド・東北 in 宮城・三陸」を起ち上げ、今日に至っている……。

 

(5)

話を1977年の日刊スポーツサイクルグランプリに戻す  

70年代半ばから、日本の自転車需要は急激に減り続けていた。苦境打開のためにスポーツ車需要の振興が最重要テーマになっていたが、道路使用規制が厳しくレース開催は容易でなかった。

それでもサイクルグランプリは、芦ノ湖スカイラインに替えて、第2回から茨城・常陸など交通事情が緩やかな公道で継続されていた。

ようやく1984年の第8回目から、山梨・富士五湖の一つ西湖に安住の地を得る。

(サイクルグランプリ 西湖ゴール風景)

西湖一周10kmは短い感は免れないが、公道としては安全。周回だからレース経過がよくわかる。地元足和田村も村を挙げて歓迎、運営にも熱心に協力した。サイクルグランプリは、西湖に定着した。

(表彰式をする特設ステージ)

84年、自転車競技に力を入れる日刊スポーツは、サイクルグランプリとは別に、「オリベッティ ツール・ド・ジャパン」を新設する。

2008年には、この2つのレースが合流して、「中野浩一V10メモリアル ツール・ド・ジャパン」という5会場のステージレースに発展。その最終戦の西湖ステージを、「兼ブリヂストンサイクル杯31回日刊スポーツサイクルグランプリ」と呼んだ。

  今や西湖は、日本を代表する市民レースのメッカに育っていた。

ところが12年、練習中の選手と住民のトラブルが発生。その他の事情も加わって、13年から中止されている。

スポーツ報道のジャンル拡大を目指した日刊スポーツの狙いは的中した。

今では、サッカー・マラソン・バスケット・トライアスロン・ゴルフなど多くのスポーツに関与し、自転車では、国際ロードレース「ツアーオブジャパン」の後援に名を連ねている。

そのF1ツアーオブジャパンの第1~第8ステージのうち、第6ステージは富士スピードウェイ周回であり、第7ステージも一部そのコースを使用している。

しかも協力企業のなかに、富士スピードウェイだけでなく、NIPPOもある。

まさにF1の再現ではないか!と横芝はつぶやく……。

 

(6)

2020年、すでに引退している横芝の胸中に、1977年のF1と日刊スポーツの2つのレースが鮮やかに蘇る  

これが契機になったのか、スポーツニッポン新聞と自転車メーカー松下電器(現パナソニック)が組み、ロードレースを開催した。

80年代には、丸石(現マルイシ)・旧サンツアーの神鍋カップ・シマノのグリーンピアなど多くのレースが誕生した。

今日では、全国各地でいろいろなレースが行われている。参加者が増え続け、もっと盛んになるに違いない。オリンピックでも人気になるだろう……。

  振り返れば、1977年は自転車ロードレース元年だったのだ。そうそう、10連覇を達成した中野浩一の世界選手権初優勝も同じ77年だったなあ……。

(作者:角田安正)

9か月前