アツシとカンタさんは、列島横断自転車旅行の準備に余念がない━。
カンタさんは、高校生だったアツシにロードバイクを教えてくれたボーイスカウトの7歳上の先輩。野外活動好きが高じ、アウトドア商品を扱う商社に勤務したが、現在はある公益財団が運営する公園の管理人である。
高校生の時はロードバイクでいっぱしのライダーを気取っていたが、社会人になってからは「登山」と「キャンピング」に没頭。最近のロードバイクブームに刺激され、中年になった今さらであるが初級クラスのMTB乗りに復活した。「カンタさん」は通称であり、昔から仲間内でそう呼ばれている。
前夜祭を楽しむ
スタート地点に予定した葛西臨海公園近くのビジネスホテルに集合したアツシとカンタさんは、2人一緒なら寝坊防止になるからと、コストダウンを兼ねツインルームを取った。
このツインルーム生活は、その後も続く旅の定番スタイルになる。
ロードバイクを諦め、お供に決めた2人のMTBを、ロビーに置かせてもらう。今では部屋にも入れられるホテルが増えたが、7年前は自転車の持ち込みそのものが珍しい時代であった。鍵を掛け、盗難は自己責任ということで許可を得る。ありがたい。
(フロント前に置かれた2人のMTB)
旅の準備が整った。さぁ居酒屋で前夜祭だ……。
「アツシ、走る前日は何を食べればいいの?オーダー任せるよ」
「カンタさん、練習あまりできてないでしょ?」
「……うん、でも結構やったよぉ。Facebookの書き込み、見てるでしょ?」
「はい、アツシはその5倍くらいの距離を練習しましたけどね」
「わかった、わかってるってば。で、何を食べればいいの?」
「プロ選手じゃないんだし、明日はレースでもないでしょ。そもそも練習が十分でない」
「……うん」
「普段やってないことはできません、だから突然食事を変えても意味がありません!」
「そぉなの?」
「普段やってないことは本番でもやらない……これ自転車乗りの鉄則です。この旅では、その土地の旬のものを食べ、好きなものを呑む。これを活力にしましょう」
「なるほどぉ、やった!」
カンタさん、簡単に納得するのは、昔から変わらないな……。
東京湾の水、確保!
朝4時起床、ついに出発の時が来た!2人ともかなり興奮している。
その興奮は、カンタさんの書き込みからも読み取れる。
(興奮するカンタさん facebookその1)
2人はコンビニエンスストアに行き、太平洋の水を汲むペットボトルを購入した。大きさは?色柄は?35年も昔からの悲願だ!ボトルひとつを選ぶのにも力が入る。
朝4時30分、葛西臨海公園の水辺にある休憩小屋に到着した。自転車乗りが休憩する定番の場所だ。アツシにとってもよく立寄るスポットであるが何か普段と違う。朝焼けの薄暗いモヤが冒険の旅立ちへの興奮を掻き立てているためか、不思議と初めての場所に感じられた。
ボトルを持って水辺に近寄っていく。水辺は岩場だ、MTB用SPDシューズで比較的歩きやすいが、それでもコケで滑りやすく結構危ない。じっと水を見つめた後、東京湾から太平洋の水をすくい上げる。
(太平洋の水を汲む2人)
やったぜ、ベイベー!気分も高まってきたぜ!
その時、事件は起きた
「アツシぃ……」
何やらまた嫌な予感がする
「アツシぃ、スマホが無いよぉ……」
「えっ?さっき写真撮ってたじゃないですか!ほんの3分ぐらい前ですよ!」
「そうなんだよぉ、ウェアのポケットに入れたと思ったんだけど、無いんだよぉ……」
あちゃー、もう事件が起こってしまったか。最初の目的地が携帯ショップに変更されるのか。
まぁ、カンタさんらしいっていえば、カンタさんらしい……いやいや、それどころじゃない!起きてしまったものはしょうがない。何とかするしかない!
年はとったが、オッサンたちはもともとボーイスカウトだ!
よし!ここは長年訓練してきた「観察と推理」を駆使して、自分たちの力で活路を見出すしかない!ボーイスカウトではボランティア活動をしてきたのではない!
「アツシのスマホに、カンタさんが写ってますよ」
(スマホを持っているカンタさん)
「うん……、で?」
「岩の上のカンタさんは、手に自分のスマホ持ってますよね」
「うん、間違いない」
「写真の岩は、そこにある岩かと」
「そうだな、それも間違いないな」
「その岩から、自転車を止めたところまでのどこかあるはずです」
「アツシ、理論上はそうだけどさぁ……ほとんど岩場じゃんか」
「あきらめたら終わりです!まずは探しましょう!」
「わかった!やるだけやってダメなら次を考える、だな。我々はボーイスカウトである!」
約10分経過……。
「あっ!あった!コレですよね!」
「アツシ!あったか!」
「写真の岩と隣の岩との隙間に落ちてました。しかも濡れてない!」
「チョ~~~ウレシイ!よっくやった!」
(反省するカンタさん facebookその2)
うれしいのと、見つかった安堵からか、早くもカンタさんはお疲れ気味の様子だ。
仕方ないか……
(スタート前のMTB勢ぞろい)
なにはともあれ、これで出発できる!
スタートの証として記念撮影しよう……。
頼まれて苦笑い、コマネチスタイル!
さすが葛西は都内屈指のサイクリングコースの起点である。周りには、朝早くからロード乗りが大勢集まっている。
カンタさんが、人のよさそうな若者を選んでスマホを渡す。
「スミマセン……コマネチします。このまま撮ってくれませんか?」
コマネチ?あれから30年以上経つ。何のことやら、今の若者にはわからんだろうな?
オッサンは古いからなあ。
(太平洋の水を手にコマネチスタイルの2人)
コマネチとは、オリンピックで大活躍したルーマニアの女子体操選手のハイレグ姿を真似た、ビートたけしの一発ギャグである。80年代前半に大流行した。
下半身をがに股にして、両手の指先を真っすぐ股間下のハイレグ位置にセット「コマネチ!」と叫んで、両手を斜め上にする。顔も斜めにしてとぼけた表情をする━これが正統コマネチである。
われわれボーイスカウト仲間では、日本百名山の全登頂を目指しているのだが、カンタさんがある山頂の記録撮影で、何気なく始めたのがコマネチスタイル。以後、皆に自然と浸透、あちこちの山の上で、コマネチ!を実行しているのだ。
簡単に言ったら……真剣な大人のオフザケである。
ついに出発の時が来た!
ビックリした表情を浮かべている若者に、カンタさんは何気ない口調で言う。
「このMTBで、これから新潟の直江津に行って、太平洋の水を日本海に注ぐんだよ」
ロード乗りの若者は2度ビックリ。
「いやぁ、アホですね。でも……そういうのオレ好きです、オジサンたち頑張ってね!」
若者は別れ際に、北上する新潟方面への風向きはずっと追い風だ、と自転車乗りらしい情報を教えてくれる。出発の門出に縁起がよい。
既に予定から30分以上遅れている。が、ともかく出発だ!
35年かけた想いをMTBに乗せ、2日間のオッサンたちの旅が始まった……。