メイドインジャパンの品質はいかにして向上したか

日本の自転車産業は第二次大戦前と戦後で大きな断絶があった。生産台数の推移からもそれは明らかである。戦後復興期には、多くの企業が自転車産業に参入したこともあり、台数はそれなりに確保できた。だが、品質はどうだったか?

戦後間もない1950年代前半の大きなテーマは、生産技術・品質向上であった。

(自転車産業振興協会『自転車の一世紀』より)

  まず、戦前と戦後の断絶について考えてみる。

自転車産業は、第一次大戦による輸入代替期を経て、1920年代に国産化をほぼ達成した。その生産は東京・大阪(堺)・名古屋に集中し、簡潔に表現すれば、完成車の東京、部品の大阪、その中間の名古屋といった具合であった。

1920年代後半になると、東アジア・東南アジア諸国が日本の自転車やその部品を輸入するようになった。31年の金輸出再禁止以降、為替ダンピングの影響もあり日本の輸出は急増した。部品については、実に生産の半分以上が輸出に回されていた。その後も順調に輸出台数を伸ばし続け、37年には機械輸出のトップを占めるに至った。この頃の自転車産業は機械産業の花形であった。

しかし、第二次大戦により民間向けの生産はほぼ途絶した。自転車メーカーが生産品目を軍需品に転換させられたためだ。かつて東南アジア市場からイギリスを駆逐し、輸出面で欧米に対抗し得た日本の自転車産業は、戦時に民間向けが生産できなかったため、完成車・部品メーカーの生産設備更新が行われず、生産力は欧米と比して相対的に後退した。当然、技術も他国に後れをとることになる。

36年には14万2000台であった日本の輸出は、主要市場をイギリスや西ドイツなどに奪われ、戦後の46年はわずか3000台からのスタートとなった。輸出の不振はしばらく続き、その要因の一つに、日本製品の低品質が指摘されていた。

49年通商産業省(現、経済産業省)は、工業技術白書に記述している。

「戦前世界首位にあった日本の自転車産業は、今では製造技術が旧態依然としている。世界一のイギリスに比べると、品質・価格が劣っている。鋼材の品質改良、製造技術の革新、設備の近代化が必要である」(要約)

  そのような状況の下、通産省の指導により、工業会が中心となって、欧米製品へのキャッチアップを図る試みが開始された。

日本自転車工業会は、当時の自転車関連製造企業の9割を占める約450企業が参加する、産業内の中心的組織であった。自転車産業の復興と持続的な発展を主目的に、統計データの作成や市場情報の共有、製造技術の向上の研究などをおこなっていた。

工業会所属の完成車・部品メーカーや通産省、自転車検査協会によって行われた試みの一つが、植民地輸出用のイギリス製自転車のリバースエンジニアリングによる外国製品の研究であった。

輸入された外国製自転車一覧表の一部

(日本自転車工業会「外国製自転車研究報告書1951」より)

シンガポールからイギリス製自転車を数十台輸入し、分解などしてその特性や製造方法などを研究した。

まず、完成車は山口自転車や日米富士自転車などの当時の有力なメーカーに分配された。同型の車体が複数ある場合には、分解して部品ごとにそれぞれ完成車・部品メーカーに分配された。1台をバラして最大で12社に分けたり、チェーンやサドルといった部品が完成車メーカーに分配されることもあった。

切断された英国製自転車のクランクとその断面

(同報告書より)

研究は、完成車・部品を分配された企業・団体が担当した。完成車メーカーでは、宮田工業や山口自転車といった戦前からの大手企業はもちろん、他産業から参入した新規の企業も参加した。

戦後の46年に一部の軍需工場を自転車部門に転換させ、SILK(シルク)号を発売した繊維の片倉工業は、軽快車1台を分配され、走行試験に関する研究報告を行った。同様に戦後参入したクラブ化粧品の中山太陽堂がフレーム、特殊鋼材の日本金属が泥除けの研究報告を受け持っている。

メーカー以外の団体としては、自転車検査協会や堺市産業技術委員会が、完成車研究の一部を担った。

部品については、当時は1種から数種に限られた部品を製造する専門業者が多かったこともあり、一部のメーカーが独占することなく、それぞれの専門部品を研究報告した。

  このように、企業の垣根を超えて外国製に関する研究が行われた。研究自体は大企業が中心となって行ったものの、工業会によって情報が中小メーカーにも公開された点で、その役割は大きかったといえよう。

1950年の外国製自転車の研究における輸入車の分配

(同報告書1950より)

もう一つ着目すべきことがある。

研究に使用された自転車は、イギリス製であり半数以上が軽快車だったことだ。当時のイギリス国内市場は、軽快車が大きな割合を占めていたが、東南アジア向け輸出は実用車がほとんどであった。にもかかわらず、日本が研究した自転車の半数が、実用車でなく軽快車であったことには重大な意図があった。

調査にあたって、日本スイフト工業の藤原孝博は述べている。

「実用車だけでなく軽快車も、技術的水準を更に高め、国内的にも大衆性ある車として普及させる必要がある。同時に輸出軽快車の基礎を確立すべきである」

  これらの研究は着実に成果を生んだ。生産統計を見ると、1960年代半ばから実用車から軽快車への移行が急速に進んだことがわかる。

完成車種別生産       単位:1000台

(同報告書1973より)

この軽快車生産における技術的な基盤は、1950年代における多くの企業・団体が参加した外国製自転車の研究によって築かれたものであった。それは官民一体となった自転車産業オールジャパンの成果に他ならなかった。

3年前