自転車実用化の歴史

近年、自転車の種類はますます増加している。1960年、JISで自転車の種類が定められた当初は、「実用車」、「軽量車」、「子供車」、「特殊車」の4種類であった。それが、2013年の改正時には表のように10種類に増えている。

用途についても、交通の補助手段として日常的に利用されるものから、娯楽であったり競技であったり、様々なことに用いられていることがわかる。

それらのことから、実用車だけでなく軽量車の需要が増加し、通勤・通学や買い物、サイクリングにも使用されるようになったのは、JIS制定以前の早い時期と考えられる。

このような、自転車の種類・用途の多様化についての言及は、自転車にまつわる古い文献にはまるで枕詞のように多く見受けられる。何度も読むうちに、私の中で1つの疑問が浮かび上がった。

―そういえば、実用車はいつからあるのだろうか?

実用車という言葉は割と曖昧なので、ここでは業務用で荷物運搬に使われた自転車と定義づけたい。

日本に自転車が入ってきたのは幕末だと言われているが、それからしばらくの間、自転車はもっぱら嗜好品であった。「昔の自転車」ときくと、前輪の大きい自転車を思い浮かべる人は多いだろう。

(明治時代の前輪が大きく後輪が小さいだるま自転車)

実際、明治時代中期に主に市中を走っていたのは、だるま自転車なのだが、どう考えても荷物運搬には適さないし、価格が高すぎる。

―更にいくつかの疑問が浮かぶ。現代のような前後輪同径の自転車が出るのはいつか?自転車屋どのように出現したか?工場生産がなされるのはいつか?

それらの疑問は、実用化と深い関係があると思われる。そこで、明治時代までさかのぼって日本自転車産業のはじまりについて考えてみたい.

昨年、日本カメラ博物館で1枚の自転車の写真が発見された。

日本カメラ博物館職員によると1873年から75年の間に撮られたものらしい。車体を見るに三輪車のようである。1901年の雑誌に自転車の種類として3輪や4輪のものが紹介されていたので、これを自転車と呼ぶことに抵抗はない。しかし、この自転車の用途や製作者ははっきりしなかった。外国人の誰かが持ち込んだのだろうか。

 

(木製3輪車に乗る人)

別の史料ではあるが、1870年頃、外国人が三輪車に乗って東京市中を往来したという記録が残っている。

これら三輪車は、あまり実用的ではなかったと思われる。

―また、1870年代の秋葉原には貸自転車屋があった。

料金は線香1本2銭であった。貸自転車は1890年頃まで何度か流行した。1878年の「東京府統計表」によれば、自転車の登録台数は379台で、すべて貸自転車を主とする営業用であった。

となると、記録こそ見つからなかったが、この頃には自転車の修理を引き受ける店があったと思われる。貸自転車屋は主に丁稚や小僧らが利用したが、彼らはしばしば停車に失敗し、前輪から壁等に突っ込んで前リムを折ったという。その乗る様子を見た市民は、それを「馬鹿車」「アホ車」などと表現した。

フレーム等の金属部分の修理は鍛冶屋が請け負った。鉄砲鍛冶や野鍛冶、職人などが、本業の片手間に始めたのが自転車修理業の始まりであった。自転車修理が軌道にのると、専業化したり、シートポストやフロントフォークなどの部品製造に着手する企業も出現した。

1880年ごろまで自転車はかなり珍しい乗り物であった。二輪を乗りこなすのが難しいためか、日比谷には自転車練習場があった。自転車を実用的と見て、貨客運送に用いようとする出願が数件あったが、のちにそれが繁盛したという記述は見あたらなかった。

やはりこのころの自転車は、実用にはあまり使われず、主に娯楽用だと私は思う。

―自転車に実用化の兆しが見えたのは1890年頃である。

1892年に、憲兵隊司令部や東京郵便電信局らが乗馬代用として取り入れている。

また、1893年の通信省年報には、「東京10(セーフティ)、大阪7(セーフティ)17(達磨)」の保有記録があった。民間でも、医者が移動用に用いた等の記述はあるが、企業や商店に浸透している印象はあまりなかった。
ちなみに「セーフティ」とは前後輪同径の自転車、「達磨(だるま)」は前輪の大きい自転車のことである。「セーフティ」は日本では1886年に輸入が開始された。

(狩猟をする徳川慶喜)

いずれにしろ、1890年代の実用面での自転車利用は限定的であったといえよう。

自転車の軍事利用についても、日本では定着しなかった。が、史料収集の過程で関連した面白い記事があったのでここで紹介したい。

1893年7月の『猟之友』という雑誌の文章を私的に要約すると―。

欧米の自転車産業がさかんで、通勤を含む短中距離移動に使われている。森林の中を走れば新鮮な空気を吸えて健康に良く、移動時間も短縮できる。アメリカでは兵士の自転車もあるそうだ。我々も猟の際、馬や人力車のかわりに自転車を使ってみるのもいいかもしれない。

同時期にそれを実践した人物もいた。第15代将軍、徳川慶喜である。

カメラや猟など多趣味で有名な徳川慶喜は、複数台の自転車を所有していた。1989年の静岡市自転車税課税対象は12台であったが、うち4台は徳川慶喜所有の物だったという。静岡での隠居時代、写真撮影や猟へ自転車に乗って出かけていた。

 

―1890年代、自転車は主に外国商社の取扱商品であった。

 

実用化の兆しが見えたといっても、使う人はかなりの珍しがり屋で、新し物好きであった。日本の自転車市場には、米国製、英国製と若干の日本製が存在したが、そのほとんどを米国製が占めていた。

多品種少量生産の中流階級狙いの高級車を志向した英国自転車産業に対し、米国自転車産業の主流は互換性部品を武器にした大量生産が特徴の大衆車であった。当然、英国製よりも米国製の自転車の方が安かった。

もちろん、安かったと言ってもかなりの大金である。小売店は1台売れば半年食えたという。ただし、1台売るのに半年かかったと当時の小売店主が回顧している。

自転車は金持ちの道楽であったから、まずお客さんと仲良くならねばならない。一緒に遊びに行くなどして信頼を得てから、自転車の乗り方を教え、売り込みにいった。

購入後のアフターサービスも欠かさなかった。購入者の元へ御用聞きに行き、メンテナンス等を請け負った。

また、店主はしばしば、乗り慣れた旦那衆を集めて、遠乗会を開いた。店主はリーダーでもありお供でもあった。途中の事故に備えて修理道具を車体に括って走った。


(1897年に撮影された遠乗会の様子)

このような経緯を経て1901年の東京市中の自転車数は、自家用4571台、営業用857台となった。
自転車は古くなると中古車として地方へ移されていった。12円、5円、3円と値が下がるうちに地方でもちらほらと自転車に乗る人が出現しだした。

―1890-1900年代には、のちに名を轟かせる企業が自転車業に多く出現する。

販売面では、石川商会が1900年、日米商店が1901年に自転車の取扱いを始めている。ただし、当初は取扱商品の1つに自転車があったという程度であり、自転車専業ではなかった。

宮田製作所(現ミヤタサイクル)本所菊川工場竣工は1890年であった。

7馬力のボイラーを動力に旋盤をはじめとする製造機械を備えた、当時最新鋭の工場である。

(宮田製作所 本所深川工場 内部写真)

工場生産での国内最初の自転車はここでつくられた。1900年代前半までは旋盤も人力のものが主に使われており、動力をもつ工場自体が珍しかった。それでも当初は、1台つくるのに6人の職工で1か月かかったという。

日本製の自転車は、輸入車の1/2程度の価格であったが、このころはやはり米国製の市場シェアが圧倒的であった。1900年代後半以降、部品から徐々に国産化が進んでいくが、このとき宮田製作所工場出の職工が多く活躍している。

―自転車の用途が本格的に実用に移るのは1900年代後半であった。

大きな商店などが移動や配達に自転車を用いるようになった。有名な事例としては三越のメッセンジャーボーイがあげられる。1909年に創設されたメッセンジャーボーイ隊は、それまでの荷車に替わって自転車で貨物の配達を行った。


(整列する三越自転車隊)

―需要が実用に移ったことで、丈夫で安価な車体が求められるようになった。

そこに目を付けた英国自転車産業は、自転車の構造を単純化し、価格も下げて、日本市場獲得に乗り出した。金額ベースで見るに、1904年時点ではイギリス125,255円、アメリカ724,248円と、圧倒的にアメリカからの輸入が多かったが、1910年までには英国車が米国車を駆逐するに至った。

また、用途が実用に移ると、車体のブランドの宣伝は以前に比して意味を持たなくなった。

有力な小売店は、販売価格を下げることを目的に、自身で組み立てた自転車を販売するようになった。完成車を仕入れるのではなく、フレームのみメーカーから仕入れ、その他の部品は問屋で買い入れ、それらをアッセンブルして1台の自転車にしたのである。

これを見た部品問屋は、フレームと提携した部品業者から仕入れた部品をセットにして、小売店に納入するようになった。完成車卸ビジネスの始まりである。

以降、国内自転車保有台数は1907年に約8万6千台、1910年に約23万9千台、1915年に約68万4千台と伸び、明治時代末から大正時代にかけて自転車は急速に普及していった。

―まさに実用車全盛時代であった。


(1910年の丸の内の様子。自転車、自動車、人力車、馬車が走行している)

7か月前