レンタサイクル物語21
レンタサイクル日本史(2)

レンタサイクル物語20

レンタサイクル日本史(2)

世界に先駆けた

自転車都市への摸索

1970年代に、政府は2次にわたる「自転車安全利用計画」を打ち出し、64の自転車モデル都市選定や駐輪場整備など都市交通に自転車を使う政策を推進していた。とかく縦割り行政が批判される日本の省庁には珍しく、総理府・建設省(当時)・警察庁など7省庁にわたる横断的、総合的な動きであった。

それは、オイルショック以来の自転車活用社会実現への摸索であった。

一方民間でも、レジャー用レンタサイクルが観光地でブームになっていた。それが追い風となって、都市型レンタサイクルも注目され始めた。

80年代になり、いくつかの自治体が、コミュニティサイクルと呼ぶ都市における共用自転車の実証実験を開始した。

国や自治体が主導する都市公共交通としての自転車利用は、この時点では世界にも先例がほとんどなかった。このまま展開されていれば、自転車先進国・欧米に先駆ける自転車活用国家が誕生していたかもしれない。だが、時代はその流れを遮ったのである……。

倍増する自転車

都市のゴミ、放置車戦争勃発

70年代半ばから、それまで年間300~400万台で安定していた自転車需要が、600~700万台に倍増してきた。このため保有台数も、自転車税が廃止されたため推計に過ぎないが、4.000万台から猛烈に増え続け、90年代には実に7.000万台を超える勢いであった。

当然の結果だったが、全国の国鉄(現・JR)や私鉄駅前は、所かまわず駐輪される100万台にも及ぶ大量の放置車で溢れかえった。

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駅前の溢れんばかりの大量放置車(80年代関西の阪急荘内駅)

原因ははっきりしていた。「商業型」と呼ぶ製造問屋型の廉価車メーカーが台頭、それに台湾・韓国輸入車、のちには中国超廉価車が加わり生産が急増。流通では乱立するスーパー、ホームセンターの安売りにより価格破壊が起こったのである。原因はわかっても対応の仕方はなかった。

この自転車の生産・流通構造の大変化により、価格が半値以下に急落した。実用の自転車は“1家に1台”の耐久消費財から使い捨て消費財に変わり、自転車の価値観は失われていった。あたかも極端に安物化していく「雨傘」にも似ていた。

加えて盗難車や“駅前に捨てにくる”廃棄車が多発、放置車戦争を助長した。反公害のはずの自転車が、交通を妨げ、都市景観を損ない、国民のモラル欠如を助長するとして、「銀輪公害」と叫ばれ社会問題化した。

頓挫するコミュニティサイクル計画

全国の自治体は、人も金も放置車対応に追われ、もはやコミュニティサイクルどころではなかった。

冗談だが、21世紀の欧米で流行語になる「ラストワンマイル」(=駅まで電車で行き自転車で目的地へ)は、道徳心を失なった人たちの駅前放置車の“ちょい借り”により、このとき日本で実現されていたわけである。

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(放置車の撤去に追われる自治体)

自転車関連予算は、放置車の回収と処分、駐輪場対策に集中的に投入された。東京都の例では、放置車撤去と管理費120億円・駐輪場整備費30億円、合わせて毎年150億円を超える巨額の対策費を余儀なくされた。

それでも、初めのころは持主を見つける努力をして回収車を返却していた。しかし年を追って増え続ける放置車に業を煮やした業界関連団体は、ゴミ処分と同じように廃棄車を荷台に押込み圧縮する「プレスパッカー車」や「自転車カッター(裁断機)」を提供したほどであった。