角田安正・雑記帳
三輪自転車の話(3)
1870~80年代の英国では、倒れにくい特性が好まれ、三輪自転車は二輪自転車と並ぶ需要があった。が、このトライシクルと呼ばれた自転車の最大の欠点は、曲がり角で小回りできないことだった。
━そして100年後、自転車ブームが世界に巻き起こった。1973年日本でも最高記録になった年間941万台を生産、1千万台達成も間近の勢いだった。
そこに突如として、自動車メーカー2社が三輪自転車市場に参入。三輪車戦争が勃発した。
「スズキ」、「ダイハツ」が、それぞれの自動車技術を応用して、それまでの固定式三輪車に新しい光を充てた。それは自転車の運搬需要の喚起を図る、新しいマーケティング戦略だった。
フレームと後輪の間に左右に動く「スイング機構」を入れ、乗る人が車体を傾けると、二輪自転車に近い旋回ができた。機構には「ばね」を組み込み、ばねの復元力により車体が復元する動きが得られた。
これ以降、スイング機構付きが三輪車の主流になっていく。
━1974年、今日では自動車メーカーとして世界に飛躍している「スズキ」が、三輪自転車「リンクル」2車種を発売した。
(リンクルTU-S スタンダード 定価49.600円)
(リンクルTU-S デラックス 定価56.500円)
リンクルは、後ろ2輪にナイトハルトサスペンション付きスイング機構を装着。車体を傾斜すれば旋回でき、後輪が障害物に乗り上げてもショックアブソーバーが働き、自転車に乗れない女性でも安定走行できることがセールスポイントだった。
━そのころスズキは、本業のオートバイ・軽四輪自動車だけでなく、ブームに沸く自転車市場への参入を大掛かりに進めていた。
すでに2年前の72年、自転車メーカー「丸金(マルキン)」と「丸紅山口」2社に生産委託して、スズキブランドの自転車を販売開始。翌年には7万台のフランス「モトコンフォール自転車」16車種を輸入販売、着々と自転車での地位を固めていた。
発売されたリンクルは、ファッション性のあるデザインも受け“ショッピングカート+自転車”として、ヤングミセス中心に婦人層に大ヒットした。
(リンクルは主婦層にヒットした)
スズキはリンクルのパーツ10数点を自社製造。完成車はスズキ直系子会社「スズキ梱包」に専用生産ラインを設置、丸金委託生産と合わせ月産5.000~6.000台の販売を目指した。
リンクル2車種の追加により、スズキ自転車の車種体系は、スポーツ車・ミニサイクルなど全部で16車種に展開され、商品は出揃った。
販売体制も全国7ブロックの卸組織「スズキサイクル部会」を編成、小売店にも“10億円の店舗美化融資制度”を打ち出し、販売網系列化を図った。
消費者向けにはTV宣伝を開始、大掛かりな販促イベント“スズキサイクル祭り”などを開催した。
スズキは体制を整えると、自転車メーカーの最有力団体「日本自転車工業会」に加入を申請した。
スズキは、自転車事業化に本気だった……。
━スズキ三輪車進出と同じ74年、またまた大ニュースが業界を駆け巡った。軽四輪自動車メーカー「ダイハツ」と、自転車トップメーカー「ブリヂストンサイクル」が、三輪自転車の共同開発を発表したのである。
ダイハツがフレームを左右に傾ける「スイングフレーム(SF)」機構を開発、ブリヂストンが完成車ノウハウを提供。名称を「トリサイクル」と呼び、両社でそれぞれ商品化する内容だった。
SF機構を付けると、旋回が容易になるだけでなく、荷物積載時にふらつきがなく、横転の恐れも少ないことが特徴である。トリサイクルは、荷物を運ぶ需要に重点が置かれ、駐車時にスタンドを立てる必要がないようにパーキングストッパーが付いていた。
ダイハツはブリヂストンに生産委託、「ハローワゴン」ブランドで自動車ルートに供給。ブリヂストンは「ピクニカワゴン」と名付け自転車店ルートで販売した。
これについて、自転車小売店業界から、「ブリヂストンは自動車ルートで二輪自転車も販売する!?」と大騒ぎになり、ブリヂストンは釈明に大童だった。
同時にダイハツは、フランスのモペット「ソレックス」を輸入。すでに日本では需要が終わっていた、ペダルと小型エンジンの併用走行ができる、モペットの販売も試みた。