自転車が嫌いな理由。また乗りたいと思う日が来ると信じて

・自転車を、なぜこうもキライなのか?


普段自転車の事は、一切考えていない。
考えたくもないし、意識の中には自転車の事が一片たりともない。

 

時折コレクターアイテムとして、なんとなくWebでレトロアイテムを眺めてみる事くらい。
その時ばかりは、楽しくも苦しかったトライアスロンの事。
それを通して毎日自転車と真剣に向き合った、温かい記憶が蘇る。

 

ここ10数年、自転車にはまともに乗ってすらいない。
乗る気が全くおきない、視界に入れる事も実は嫌なくらいだ。

 

普段、自分のWebメディアでライフワーク的な事を書き続けている。
13年程書いているが、大好きなジャンルの為か、いくら書いても楽しい気分は変わらない。
しかし、自転車の事となると・・・一向に筆が進まない。

 

ネガティブな内容は、自分としても書きたくない性分。

 

あんなに好きだった自転車、なぜこうも嫌いになったのか?。
「これっきり」という形で書いてみようと思う。

 

・大切な、自転車と向き合った記憶


改めて自転車の事と向き合い、この場で考えてみる事にした。
ゆっくりと自分の辿ってきた記憶をさかのぼると、確かに自転車は大好きだった。

 

トライアスロンを始めたばかりの時は、とにかく自転車を触れる機会を増やそうと?高校の友人の自転車のパンク修理も喜んでやってあげてた程。
来る日も来る日も心血を注いだロードレーサー、今で言うところのロードバイク。

 

今でも埼玉県の実家ガレージに4台。
帰省の際に時々シートをめくって密かに思いを巡らせ、心の中で言葉をかけている。

 

「待ってろよ」・・・と。

 

・自転車の利用者が最優先・・・なのか?


自転車のマナーが極端に悪い、現在の生活圏。
引っ越してきたばかりの時には、衝撃的だった。

 

どんなに狭かろうが、歩行者が多数いようが、お構いなし。
そこは歩行者の上に自転車が成り立っている様だった。
もっと言ってしまうと、「車 < 歩行者 < 自転車」という感じ。

 

「轢けるものなら、轢いてみろ!」
と言わんばかりに飛び出してくる自転車。

 

歩道も、交差点の一時停止も、信号も、そして歩行者も、関係ない。
自分達が一番という形だ。

そして歩道だろうが、点字ブロックの上だろうが、放置。
一部は朽ち果てている自転車も・・・。
扱いは、本当にひどいものがある。

 

世を忍ぶ仮の本業で都内で働いているが、まだこちらの方がマシ。
思わず舌打ちしてしまう程の、劣悪な自転車マナー。
いつの頃からか、自然に出てしまう自分の仕草が、「地元に帰ってきた」と感じる様にもなっていた。

 

そんな事から・・・

私は、自転車が好きだから、大好きだから!、
敢えて乗らない選択をしている。

 

・自転車界隈に思う事、そしてこれから


不思議な事に、自転車が嫌いという点においてウェブメディアで記事を書いている人を目にする機会が、あまりない。

 

環境問題、健康問題、変わり行く世の中での位置付け等々・・・。
そのほとんどが、自転車バンザイ!な内容。

 

私が感じているマナーしかり、放置自転車問題しかり。
自転車を取り巻く環境を俯瞰する様な記事を、大きく見かけた事がない。

 

自転車の新技術の投入はモチロン素晴らしいとは思うが、私 omemo的には本来あるべき交通マナーや社会マナーを見据えた技術革新、これがもっとあってしかるべきだと思う。

 

制御系業界が本業なのだが、車でも自動運転、センシング、踏み間違え防止機能等、周囲の歩行者や運転者の安全を見据えた技術が開発され続けている。
そこでなぜ自転車では、そういった技術が大きく採用されていかないのかが、小さく疑問に思っていたりもする。
自転車へのスマホ取り付け等よりも、歩いているだけで日々危険な思いをしている歩行者の安全を守る技術が、もっと世に出て欲しい。
そう切に思う。

 

誰も知らない、絶海の孤島の砂浜。
その砂浜で独り、その辺の棒っきれで書いている様な内容が、この記事かもしれない。
でも、そんなもので充分。

 

これ以上、自転車の事について書く事は、もうないだろう。

 

しかし自転車が大好きだった私が、もう一度乗ってみたいと思える日。
そんな日が、来る時を小さく信じておこうと思う。

 

4年前