強者(つわもの)どもの夢の跡
━オートバイ小史━

 

例年春になると「如月会」(きさらぎかい)が開かれる。かつて“2輪車”戦争を戦った企業戦士たちが、“如月”(2月)に集まる飲み会である……。

第2次大戦終了後まもなく、日本産業史に残るオートバイ大戦争が勃発した。それから30年間にわたり、150社を超える二輪車メーカーが存亡を賭けて戦った。

もともと二輪車は、蒸気エンジンを搭載した自転車をルーツとする。ラレー・トライアンフ・シュウインなどの欧米自転車会社や、日本でも宮田・岡本ノーリツは、戦前からオートバイ生産の経験があった。

戦後の二輪車は、浜松を中心としたオートバイメーカーの勃興から始まった。当初は、50ccぐらいの小型エンジンを自転車に付けた“モーターバイク”(原付自転車)が需要の中心だったため、自転車店販売網をそのまま活用できる大手自転車会社も二輪車に参入した。市場は史上稀にみる乱戦になった。

━参入した自転車メーカーの筆頭は、戦前すでに国産初の量産オートバイをつくった実績のある宮田製作所である。戦後はオートバイ「あさひゴールデンビーム」を発売して中型オートバイのトップになり、モーターバイクでも「マイティオート」をラインアップ、市場の一角をなしていた。

日米富士自転車はオートバイ「富士」とモーターバイク「ベビーランナー」、大日本機械はオートバイ「光」、当時の自転車のトップメーカー山口自転車も全社挙げて二輪車に力を入れた。

52年ブリヂストンは、旧中島飛行機の流れを汲む富士精密工業(プリンス自動車になったのち日産自動車と合併)を傘下において生産した小型エンジンを、ダイカスト製自転車に搭載、モーターバイク「BSモーターバンビー」と名付けて参戦した。自転車に後付けできる小型エンジンの単体販売ではトップになっていた。

━57年ごろモーターバイクの時代が終わる。二輪車需要は専用フレームに小型エンジンが付き、ペダル走行もできる“モペット”と、耐久力のある頑丈な車体に強い馬力の大型エンジンを搭載した“オートバイ”に移っていった。

ブリヂストンは、モペット「BSチャンピオン」を発売、さらに64年に「ブリヂストン90」でオートバイに参入、モトクロス競技で優勝を重ね、専用テストコースをつくるなど躍進を続けていた……。

━オートバイメーカーも激戦が続いていた。本田宗一郎創立の本田技研はモーターバイク「カブ」、オートバイ「ドリーム」で大ヒット、首位を独走した。続いて東京発動機(トーハツ)や丸正(ライラック)が2~3位争いをしていた。

そこに鈴木式機械(スズキ)が参入、日本楽器の工作機械部門のヤマハ発動機(ヤマハ)が加わり、川崎重工(カワサキ)が老舗オートバイメーカー目黒を吸収して参戦した。

二輪車は技術力と企業体力の勝負であり、量産効果が物をいう弱肉強食の戦いである。群小メーカーはもちろん、名のある会社が次々に市場から撤収淘汰されていった。

宮田・日米富士は手傷を負って撤退、山口は倒産、ブリヂストンだけが戦いを続けていた。ホンダ・スズキ・ヤマハ・カワサキが生き残り、ブリヂストンを加えて「オートバイ5社」と呼ばれていた。あたかもアガサクリスティの名作「そして誰もなくなった」を地で行く情景であった……。

━そのころブリヂストンに、北陸地方のある県警本部から電話があった。聞きたいことがあるから誰か説明に来いとのことである。私が一人で行くことになった。

出張して県警におもむくと、制服に身を固めた購買担当の警官が待ち受けていた。

「ブリヂストンがオートバイ事業から撤退する噂がある。来月は新車購入の予定があるので尋ねるが、それは本当か?」

睨め付ける視線に押され、答えに詰まった。撤退は事実だが公表までは極秘扱い、事情を説明すればキャンセルされるかも知れない。とはいえ警察でウソを言うのもはばかられる。

しばらく間を置き、「そんなことはありません」と断言した。だが、これではまずい。急いでフォローした。

「申し訳ありませんが、私ごとき若輩者には何も聞かされていません。しかし万一そんなことがあったら、部品の供給などアフターサービスには万全を尽くします。これは責任を持って断言できます」と。

「それなら責任者を呼んで来い」と言われるかと思ったが、「ふーん」と答えただけで話は終わった。何かを悟ってくれたのであろう。翌月、注文は予定通りとの連絡があった……。

まもなくブリヂストンは国内市場から撤退を開始、続けていた輸出も71年に停止してオートバイ事業に終止符を打った。20年にわたる激しい戦いだった。

しかし話はそれで終わらなかった。オートバイ事業はある台湾企業に譲渡され、それとともに一人の技術者が台湾にわたり戦い続けた。80年代まで台北市中で見かけたオートバイのサドル下に描かれた「石橋」(ブリヂストン創業者石橋正二郎に因む)のマークは、その名残りであった。

さらに、オートバイの技術は自転車に移転され、位置決め機構変速機やディスクブレーキなど自転車の大ヒット作となっていく。

それから半世紀。最後まで戦い抜いたブリヂストン二輪車生き残りの戦士たちは、年に1度集まり、酒を酌み交わし今なお尽きぬ思い出を語り合う。今年もまた強者たちの夢の跡「如月会」がやってくる……。

▲62年ブリヂストンモーターバイク10万台突破

▲65年ブリヂストン国内外年間レース92戦88勝

▲66年東洋一(全長2.600m)のブリヂストン埼玉テストコース

3週間前