溝口和哉
毎年春になると、自転車売り場は通学車を吟味する親子連れで賑わいます。いろんなタイプの自転車の中で、最初からスポーツ車に決めている少年もいます。
父親らしい男性が息子に言いました。
「父さんも昔、スポーツ自転車に乗っていたよ。ライトがいっぱいついてるヤツ。」
「ライトがいっぱいついてるヤツてなあに?」
「ライトだけじゃなく、ウィンカーまで装着されてたんだよ。まるでくるまに乗っているような気分だった……」
(本稿の写真はすべて1975年丸石自転車カタログから抜粋)
このタイプの自転車は、「ジュニアスポーツ車」「フラッシャー自転車」などと呼ばれ、1970年代に少年たちに利用されました。スーパーカーブームに乗って、豪勢な装備が受け入れられました。
その頃になると自転車は、家族会議で買うほど高価だった実用車の時代から、子どもにも遊びや通学用の自転車が与えられる時代に移行していました。22インチのモデルも発売されていました。
さらに父親は言いました。
「当時はただひたすらにカッコイイと思っていた。いろんな子供心をくすぐる機能が多くて面白かった……。きらきら輝く電装品だけでなく変速機もスーパーカーをまねたシフトレバー型のヤツで、通学は禁止されていたから近所を乗り回していたんだよ」
歴史をさかのぼると━。
60年後半、サイクリングや通勤・通学用などに自転車の用途が拡大する中で、自動車と自転車の事故が社会的に問題視されるようになりました。
中でもその焦点が自転車通学に当てられ、学校は登下校の安全や生徒の経済的負担を考え、通学車の部品の規格を制限したり、通学そのものを禁止する学校が全国的に増えていきました。
1968年、日米富士自転車(現、FUJI)が、安全に配慮した自転車として、電飾をつけた「富士フラッシャーシリーズ」を発売します。まだ遠慮がちな小さなフラッシャーでしたが、これが「電飾車」とも呼ばれたジュニアスポーツ車の始まりでした。
その後、ステンレス材やブレーキなども工夫され、丸石自転車(現、マルイシ)のように通学車として「PTA推せん」をPRしたものも出現しました。
━このころ自動車の世界でスーパーカーブームが巻き起こりました。
ブームを追って、ジュニアスポーツ車にスーパーカーをイメージするいろいろな部品が開発されました。ウィンカーなどの方向指示器、前後ライトの照明部品、さらにコンソールボックス型変速機が考案され、少年人口の増加と相まって空前のジュニアスポーツ時代を迎えました。80年代後半には、イタリアのカーデザイナーを起用した自転車も現れました。
フラッシャー自転車による効果も多少あったのか、自転車乗用中事故における死者数は70年から80年の間に、1,940人から1,005人に減少しました。
━そして、スーパーカーブームの収束と時を同じくして、フラッシャー自転車も姿を消していきました。
当時に比べれば、現在は交通事故発生数も死者数も減少していますが、皆さまも、事故にはくれぐれもお気をつけください。