晩秋のある日の東京・麻布の国際文化会館で開かれたパーティーの席上。紅葉に彩られた庭園を眺めていると、ひとりの老紳士に声を掛けられた。
2人の話題が共通の友人である木村永徆(きむら・ながゆき)さんに及ぶと、たちまち昔の思い出が蘇ってきた。
━20数年前、ロスアンゼルスのホテルの1室で木村さんと夜更けまで語り合ったことがあった。日頃クールな木村さんには珍しく熱っぽい口調であった。木村さんは社長退任直前だったから、何かを伝えたい気持ちがあったのだろう。
「今後日本のメーカーが研究すべき課題が2つあると思っています」
木村さんはブリヂストンタイヤの初代欧州駐在員。ブリヂストンサイクル常務を経て、当時はブリヂストンサイクルUSAの社長でサンフランシスコに駐在していた。国際経験豊かで、それだけにその言葉には重みがあった。
「1つは、台湾メーカーが得意とするティグ溶接を研究することです」
1980年代に、ティグ溶接のMTB(マウンテンバイク)が流行し始めたとき、日本ではその接合部の醜さを冷笑していた。みみずばれのようなビートの山が残り、粗雑に見えたからだ。
ティグ溶接(ビートが残るヘッド部)
当時の日本のスポーツ車フレーム製法は、欧州ロードモデルの影響と日本独自
の工芸美から、ロウ付けが重んじられていた。ラグを使う場合はラグにアート工作を施し、ラグレスでは直付け処理の美しさを誇っていた。
ロウ付け(美しい曲線美のラグ付きヘッド部)
さらに木村さんは言った。
「もう1つのテーマは販売会社制度の見直しです。日本の販社も無くなるかも知れません」
米国内最強を誇ったシュウインの販売会社はすでに崩壊、日本でも価格競争激化に伴い販社経営が厳しくなっていた。卸業としての販社制度の在り方を見直せという示唆であった。
━まもなくブリヂストンUSAを退職した木村さんは、台湾ジャイアントが日本進出のために設立した日本ジャイアント社長に就任した。
それを聞いた業界雀は、今では珍しくもないが当時の世界的な話題になぞらえて「米・フォードの社長からクライスラー社長に就任した、リー・アイアコッカ張りの華麗なる転身だね」と噂した。規模こそ小さいが、自転車業界初のプロ経営者の登場だったと言えようか。
━その後、木村さんの2つの提言はどうなったか?
ティグ溶接のMTBは世界を席巻した。日本の俄かMTBファンの中には、「このみみずばれこそが本場物の特徴だ」と有難がったという。
販売会社制度も時代の流れと共に変化していく。
大手メーカーは、全国各地の系列販社を地域毎に統合して、いくつかの広域販社に大型化した。中堅メーカーは販社を併合して製販一体化を図った。
その後中国廉価車の大量輸入が始まると、高コスト体質の販社組織の卸業態は立ち行かなくなり、今日では販社を擁するメーカーは1社もない。
木村さんは現役を退き、静かに余生を送っていると聞く……。