角田安正
錦秋のころ、観光地におけるレンタサイクル事業発祥地といえる、青森・奥入瀬渓流を訪れた。実に50年振りのことだった……。
大都市における貸自転車の歴史は明治に遡る。レジャー用には昭和初期から軽井沢・山中湖の避暑地で、外人が使い始めた。
1969年に、貸自転車の草分け軽井沢・武田輪業店主が語った記録がある━
「軽井沢の自転車店8店が協会をつくり、大人車800台・子供車350台で貸自転車を始めた。車種は弓形フレームの実用車だった」
「1日1.600円。仕入れ価格(新車)1台22.000円。(1年使用中古車)1万円」
(注:当時は中古車市場があった)
「降雪で営業期間は短いが、2年で元が取れ、5年以上は使える。十分儲かる」
「客層は主に20~35歳のサラリーマン。グループ客も多い。宿泊客には紹介料1割をホテルに払う」
「車の放置は認めない。乗捨て料を貰う」
軽井沢町役場でも言う━
「観光事業として、鉄道・観光協会とも提携して貸自転車を伸ばす方針だ」
━半世紀前から、サイクルツーリズムが始まっていたわけだ。
貸自転車の詳細な古い資料がある。
上高地帝国ホテル支配人が語る━。
「変速機無し軽快車10台を保有、料金1時間200円。2人乗り防止のため荷台は無い」
「17~20歳の女性客と家族連れが多い。他の宿泊客もくる。自動車が入れない道をサイクリングコースとして推奨している」
「修理代は売り上げの10%。ついでの商売だから採算は合う」
上高地帝国ホテルのレンタル売上高
(1969年6/29~9/8実働71日間)
1位:貸自転車(10台) 249.95円
2位:ボーリング 247.500円
3位:軽自動車(1台) 85.000円
4位:ジュークボック 62.800円
5位:麻雀 17.000円
6位:ゴルフ道具 3.380円
国鉄乗り出す━。
1950年ごろ、国鉄(現・JR)は全国にバス路線網を敷き、駅員配置駅140と業務委託駅300を擁していた。
その業務委託先として「日本交通観光社」(略称日交観・現日本交通観光社)が設立され、余剰国鉄職員を受け入れていた。
1970年財政難にあえぐ国鉄は無人駅への改革を進めた。
日交観はバスだけでなく鉄道駅の運営も受託、総駅数は全国500を超えた。
もともと、国鉄の経営難から発した受託駅の採算が取れるはずがない。
━窮余の1策を考えた。
そのころ各地の観光地で自然発生的に始まっていた「貸自転車」に着目。調査の結果、駅業務の副業として事業化を決めた。
英語の「RENT-A-BIKE」を日本流に替えた「レンタサイクル」に「駅」を付け「駅レンタサイクル」と命名、観光地の受託駅で貸自転車業に乗り出した。
その第1号が、青森・十和田湖から流れ出る奥入瀬渓流の起点にある国鉄バス駅「子ノ口」だった。
3段変速スポーツ車10台をそろえ、子ノ口駅から焼山駅までの渓流沿い15キロを推奨コースにした。
第2号は岩手・平泉のバス駅である。
さらに、九州・鹿児島から北海道まで、鉄道駅にも広がっていった。
JRになったのちも近年まで、分厚い「鉄道時刻表」のうしろには、全国の駅レンタサイクル一覧表が掲載されていた。
━それから半世紀。
JRバス子ノ口駅では、今でもバス業務の傍らレンタサイクル事業を営んでいる。
ただ、名前は「渓流足アシストサイクル・楽チャリ」と変わり、時の流れを現わしている
3段電動アシスト車1.500円(10台保有)
6段シティ車1.000円(17台)
料金は4時間まで、30分延長毎に300円。
子の口駅からスタートすると、途中には「石ケ戸休憩所」が設けられ、終点の焼山駅近くに「奥入瀬渓流館」がつくられ、3拠点で運営されている。
渓流沿いのコースにはレンタサイクルに乗る中高年の男女が時折見受けられる。本格派ツーリストの姿は少ない。
━サイクルツーリズムが標榜されている今日、西日本の熱気に比べ、東北地方はこれからの感があった。
陽の光に輝く美しく彩られた紅葉、岩にぶつかり白い小波をたてる渓流、流れに落ちこむ白糸と見まごう小滝を眺めながら、昔と変わらぬ絶景にしばし見蕩れた……。
子ノ口駅のレンタサイクル
楽チャリ案内チラシ
サイクリングコースマップ
美しい奥入瀬渓流