自転車物語WEB・特別企画 座談会「現代史を斬る。空洞化論議」(1)

世界一の輸出国から一転して空洞化、今や破綻の淵に立つ日本自転車工業。隆盛と衰退の分岐点はどこだった?対策は無かったか?これからどうなる?自転車史研究者と現場経験者が昭和現代史を語る。

出席者
駒形哲哉(慶應義塾大学経済学部教授)
粂野博行(大阪商業大学総合経営学部教授)
角田安正(自転車物語WEB主宰者)
司  会(自転車物語WEB編集者)
(注)文責:角田安正(2018年5月)

1. いつ「帰らざる河」を渡ったか。

戦後日本自転車工業は物不足から始まり、その後の70年間モータリゼーション進展の中で、幾度となく衰亡の危機を迎えてきた。だが、いつも不死鳥のように蘇った。今日再び壊滅的打撃を受け、もなや再起困難と言われる。
自転車産業研究者グループの駒形哲哉慶大教授、粂野博行大商大教授、戦後史の現場を体験した角田安正元ブリヂストンサイクル専務取締役たちが、温故知新のひそみに倣い昭和現代史の中に打開策を探る。

司会「本日は、日本自転車工業はいつ頃から空洞化したか?避ける方法は無かったか?国内回帰の可能性はあるか?将来はどうなる?などをテーマに、皆さんに昭和現代史を多いに語っていただきたい」

駒形「一般に空洞化の決定的な分岐点は1985年のプラザ合意で、ここが引き返せないターニングポイントだとされています」
(注)プラザ合意とは、米ドル主体に為替レート安定化を合意したもの。1ドル230円が1年後150円台の円高になった。

角田「確かにそうです。だが、実際の空洞化の始まりは90年半ば以降です。円高は長期的、全体的に見れば、空洞化の大きな要因ですが、85年頃はそうでもない。まだ海外への工場移転も始まりません」

粂野「しかし、どこで取材しても為替でやられた、と言う声を聞きますが?」

角田「プラザ合意の5年後を見るとわかります。確かに輸出減・輸入増が起こったが、その影響は全体の2割以下に過ぎません。円高にもかかわらず、国内生産は100万台以上も増加した。企業の再編・淘汰の中で、勝ち組は黄金時代(第二次)を迎えています」
(注)85年 生産台数679万台(内輸出89万台13%、 輸入40万台6%)
90年 〃   797   ( 〃 23   2%、 〃 67   8%)
△118万台 ( ▼ 66万台      △27万台)

粂野「どうして国内は増えたのですか?」

角田「円高の進展で輸出が困難になったため、国内には十分な生産力が残った。そこで日本は世界に類のない独自車種を開発して、国内市場を創造した。これは円高になっても技術・品質的には輸入車の力の及ばない市場だった。だから空洞化はまだ始まらなかった」

駒形「ところで80年代には、円高と並行して米国でMTBブームが起こった。日本や欧州はこの対応が遅れました。この影響は大きかった?」

角田「日本でもブームになりました。だが日本市場のMTB需要はたかが知れていたので、経営的にはそれほどでもなかった。しかし、世界的に見ると、MTB出現の概念的構造的な影響は極めて大きかった。世界の勢力図を塗り替えた戦後最大の分岐点になりました」

粂野「それはどういうことですか?」

角田「一つは、世界共通車というグローバル概念が初めて生まれたこと。もう一つは、台湾・中国の世界制覇の端緒になったことです」

2. 世界共通車とは

戦後昭和史を振り返ってみる。
自転車の用途には、200年前の誕生以来常に「実用性」と「スポーツ性」の2面性があった。戦後の日本は実用車だけを生産していたため、製品的技術的に欧米輸出ができない。コストも高く、1ドル360円の固定レート時代でさえ採算が合わない。一方モータリゼーションの進展と共にオートバイやモペットに需要を奪われ、倒産や撤退が続出した。50年代は総生産わずか200万台の低迷が続き、消滅の危機さえあった。

角田「50年代は戦後最初の大きな分岐点でした。打開策として完成車も部品もスポーツ車に力を入れた。それまでの英国車に加えてフランス車を手本に、サイクルスポーツの用途別にいろんな車種を開発した」

司会「私はそのころのマニア少年でした。パーツの一つ一つにこだわっていた。スポーツ車専門店も生まれ、スポーツ車ファンも増えていた」

角田「しかしスポーツ車人口は、増えたとは言え何といっても小さい。一方で企業は売上拡大したい。このため実用車の軽量化に力を入れた。折からの核家族化もあって、女性用の軽快車やミニサイクルなど日本独自の車種群を開発した。60年代になってからじりじりと実用途の車種中心に全体需要が増え、60年代末期にようやく400万台になった。スポーツ車も伸びてはいたが、数十万台に過ぎない」

粂野「では、日本車は輸出ができなかった?」

角田「少数だが米国向けにライトウェイトスポーツ車やハイライザー子供車を輸出していた。日本車の大半は他国に類がない車種のため、ほとんど輸出できない。ところが70年初に突如として神風が吹いた。米国でバイコロジー運動による、10段変速付スポーツ車ブームが起こった。これは日本でも生産できたから、毎年100万台を超えるスポーツ車と部品が対米輸出され、自転車は花形輸出産業になった。総生産は今も破れない941万台を記録、70年代前半は第1次黄金時代と言えるでしょう」

司会「しかし欧州車好みの日本人は、この米国タイプのスポーツ車を国内ではあまり受入れなかったようです」

角田「残念ながら、このブームはアッという間に終わった。為替の問題では無く、米国国内の需要そのものが70年代半ばには無くなった。日本には輸出を当て込んだ過剰生産設備が残り、企業再編がおこなわれた。ますます完成車は国内志向が強くなった」

駒形「確かに70年代も大きな分岐点の一つでしたね。調べてみると企業は打開策として色んなことをしていますね」

角田「日本独自のマーケティング戦略をとりました。人口分布に合わせ市場細分化・多様化・差別化・高付加価値戦略により、徹底して需要を掘り起こし、それまで以上に世界にない車種を開発した。生産能力が余っているから多機種少量生産も厭わなかった。これらは日本製の高コスト体質の遠因にもなりました」

駒形「車種数はどのくらい?」

角田「色別、サイズ別まで数えると、各社500~1000機種もあり、カタログは百科事典並みの厚さでした。例えば、仮面ライダーなどのキャラクター子供車、フラッシャーなどの電装ジュニアスポーツ車、有名デザイナーによる女性車などです。有名なロードマンも形はスポーツ車だったが実態は通学仕様車でした。こうして輸出減をはるかに上回る国内需要を創出したが、他国に類のない特異な車種であり価格も高いため、ほとんどが輸出のできない国内専用車でした。のちに世界で有名になったキティちゃんなどのキャラクターは総揃いしていた。今なら輸出できたかもしれませんが(笑)」

粂野「70年代後半の世界の輸出状況は?」

角田「日米欧にまたがる世界共通仕様車はなく、車種はそれぞれ国別に違っていた。だから自国規格車のままの輸出は難しかった。日本のスポーツ車は、10段変速車ブームの頃から米国車のOEMの形で輸出された。円高が進展した70年代末期には、米国OEMは日本から台湾に移行していった」
(注)OEMとは発注者が指定するブランド・仕様・規格で受注生産すること。

司会「確かに自転車は、体格の差からフレームサイズが大きく違い、部品も英式、米式などと規格が違い、好みの違いもありました。私は自動車の世界で仕事をしましたが、自動車でさえ国際的には法規、構造、規格の違いがあり、仕向け地別に変えていました。共通車があれば、生産性が違っていたでしょう」

角田「自転車の世界貿易の本格化は、OEMからスタートしました。70年代後半は日本車の停滞と台湾車勃興の始まりです」

3. MTBが世界を変えた

米国で開発されたBMX(バイシクルモトクロス)に続き、MTB(マウンテンバイク)が80年代に入って米国でブームになった。この米国が初めて生んだ新コンセプトスポー
ツ車は日欧にも伝播、初めての世界共通車が誕生した。日本と台湾はMTBの生産を開始した。台湾は部品メーカーと共に中国へ工場進出、中国から世界へ輸出した。
すでに国内需要を基盤に成長していた中国車も、折からの経済開放策によって輸出を開始した。欧米からのOEMが殺到した中国は、90年代以降世界の自転車生産基地になって
いく。

角田「世界共通車の意味は、世界がワンマーケットになるということです。同一車種の大量生産ができる。自転車の本格的なグローバル化の始まりでした」

駒形「MTBの製造技術に日本は乗り遅れたという声をよく聞きますが?」

角田「それには多少説明がいるでしょう。技術的な問題で遅れたのではありません。台湾のフレームは、労働集約的でコストの安いティグ溶接でした。強度を保つため溶接部をみみずばれのように盛り上げるので外観が美しくない。パイプも肉厚になり重量が重い」

司会「日本のスポーツ車は伝統的な欧州車がモデルのため、軽量で高機能高品質、外観も美しい。ラグの芸術的なアート工作なども評価されていました」

角田「日本車は必然的にコスト高であり、荒っぽい使い方のMTBには過剰品質でした。その証拠に、対米輸出されるMTB高級車は日本製、廉価車は台湾製でした。日本の技術はティグ溶接に不向きだった」

駒形「それでは日本車が駆逐された原因は?」

角田「①当初は製法上のコスト高です。早とちりの日本人が、米国生まれのMTBは、みみずばれのフレームこそが本場物だと勘違いしたこともあったようですが(笑)」
②円高が進展するにつれコスト差が拡大、高くても売れた日本車の優位性が相対的に薄れたこと。
③部品規格が世界的に統一されたことに加え、シマノが部品をコンポ化したため、商品差別化が困難になったこと。
④日本国内のMTB需要は少なかったので、日本はMTBを無理に輸出しなくても困らなかったこと。
⑤そのうち台湾・中国の量産技術が確立され、品質とコストに見合う国際競争力が高まったこと。
他にもありますが、突き詰めればやはりコスト高が原因です」

駒形「輸出しないなら、空洞化は起こらなかったのでは?」

角田「国内には別の要因がありました。日本の自転車工業には宿命的と言える二重構造の問題です。詳しく説明しましょう」

( 2につづく )

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2年前