レンタサイクル物語3

自転車は維新前夜に日本に伝来、物珍しさもあって人気になったが、価格は現在の500~600万円に相当する。多くはレンタル需要だった。
そのうち、鉄砲・刀鍛冶職人が輸入車の半値以下で製造したが、高価なことは変わりない。
国産車の草分け梶野仁之助はもと灯台局職工、ナイター照明のある教習所を都内につくり普及に努めた。生徒数千人を超える米国大都市の自転車教習所「ベロシナジウム」には及びもつかなかったが。
昭和になると、自転車は大衆の足として普及、レンタル需要も無くなった。

戦後も、実用車のレンタル需要は少なく、1956~57年の第一次サイクリングブーム時でさえ、実用車で集団走行した。わずかにマニアらしいのが、自転車屋から変速機付スポーツ車を借りた。その後原付モペットや軽自動車の普及とともに「自転車無用論」まで飛び出し、消滅の危機さえあったた。
ようやく10年後、第二次サイクリングブームが起こり、本格派マニアも育っていたが、「自分仕様のマイ自転車」にこだわり、レンタル需要は少ない。事実、60年代の日本で貸自転車業が存在していたのは、外国人の多い軽井沢や山中湖ぐらいだった。
ある時、軽井沢の組合主催者「武田自転車店」を訪れた。組合員8店で大人車800台子供車350台、一日貸450円で2年で償却できる。夏場だけの商売ながら、十分に採算が取れている。

ブリヂストンはここに目をつけた。個人需要が低迷するなら業務用で打開しよう。それも都市交通用ではなく、避暑地のレジャー用としてである。まずネーミングを変えた。「貸自転車」では、いかにも泥臭い。「レンタサイクル」に決めた。
続いて専用車を企画した。不特定多数が乗るから汎用性と耐久性が第一。サドルの簡易上下装置や荷物のせを開発。(当時は前かごなどない)実用車だけでなくレジャー用にスポーツ車も。2人乗りを考えタンデムも開発。(条例で特
別許可を得た)体制が整うと「新事業レンタサイクルのおすすめ」と題するパンフレットを作成、全国規模で展開した。
この試みは図に当たり、軽井沢駅前の異様に目立つ「チサン・レンタサイクル」、全国規模の「駅レンタサイクル」(旧国鉄)、東阪名の私鉄駅での通勤補助レンタとして展開された。
このままいけばレンタサイクルは、新しい都市交通手段として定着するはずだった。
ところが、超廉価中国車の大量流入とともに、駅前は放置自転車で埋め尽くされ、レンタサイクル新事業は消し飛んだ。
これが、次の新しい軌道に乗るには、さらに10年、欧米からの新しい風を待たねばならなかった。

1年前