自転車文化センター 谷田貝一男
1.はじめに
慶応元年発行の「横濱開港見聞録 後編 中」1)に、自輪車と称した三輪車に乗った女性の絵が描かれている。これが現在判明している日本における自転車の記録の最初である。その後明治24年に長野県軽井沢で撮影された写真に、女性用自転車を携えたカナダ聖公会宣教師マーガレット・ヤングが映っているが、日本人女性が自転車に乗るというその後の記録は現在のところ、27年の読売新聞の記事2)まで判明していない。しかし、30年代になると新聞の他に新たに創刊された自転車雑誌、風俗雑誌、引き札等で記録が数多く登場してくる。
この明治という時代における女性の自転車利用に関する研究は山田貴史3)、高橋達4)の自転車倶楽部の成立状況に関わる研究がある。しかし、当時の自転車を利用している女性の立場に関する研究は高橋が「女子嗜輪会」の会員が遠乗会での状況を簡単に紹介しているだけである。本稿で、明治期において自転車を利用していた女性が、階層と性別の違いからどのように見られていたのかを明らかにした。
2.女子自転車倶楽部の成立
(ア)女子嗜輪会
日本で女性の自転車倶楽部が初めて誕生したのは33年で、この年に「女子嗜輪会」と「女子自転車倶楽部」が設立された。「女子嗜輪会」は33年11月25日、日本橋区呉服町で7名が参加して発足し、会則と内規が議決された。
会則は次のとおりであった5)。
第1条 本会は女子嗜輪会と称する
第2条 本会は愛輪同志女子相互の懇親を要とし、合わせて一般女子体育の進歩を謀ることを目的とする
第3条 本会員は淑徳を重んじ常に質素を旨とする
第4条 本会の趣旨目的を賛同するものは内外人を問わず入会することができる 入会しようとする者は会員2名以上の紹介により幹事の承諾を経ること
第5条 本会を退会希望するときはその理由をつけて事務所に届出ること
第6条 本会の事務所を東京市(当分の間は神田区小川町1番地 快進社にする)に置く
第7条 本会に次の役員を置き、会務一切を処理する
幹事長1名 幹事7名
第8条 本会の目的を達するために、毎月1回(第2日曜日午前9時より)例会を開き、春秋2季(4月10月)大会を開く
第9条 本会員は会費として毎月20銭を納めること
第10条 春秋2季の大会において会務および会計の決算を報告する
第11条 本会の面目を汚す行為を行った者は除名とする
第12条 本会の報告はすべて雑誌「自転車」に掲載する
内規は次のとおりであった。
第1 会員は多数の会員を勧誘する義務がある
第2 例会及び大会は幹事の定める場所に集合し、奮情を温め新誼を要め、そのときの様子によっては適当な場所に遠乗等も行うものとする あるいは知名人を招待して講話会を開催する
第3 会員は自転車乱用の弊害に陥らないように注意すること
第4 会員間の慶弔の礼は重んじるが、これは会員各自に金品の寄贈を義務付けるものではなく、会として相当の礼儀をつくすものである ただし時間があるときの訪は差し支えない
第5 予め自転車販売者と協議を行い、会員が購入する際は特別割引をする
幹事として次の5名が名を連ねている。(当日はこの5名の他に東宮糸子の妹のとり子とふく子が参加している)
東宮糸子 田中さの子 寺澤まさ子 朝夷竹子 柴田環子
会が発足して15日後に第1回例会が開催され、次の新規入会者5名を加えた10名が会員として、また新聞社2社からも社員が集まった。さらに賛成員2名・寄付申し込み4社・自転車購入時の特別割引3社も公表された。
新規入会者 : 吉田惠香子 高木定子 横山糸子 鳥居御杖子 伊東かめ子
賛成員 : 星野万子 櫻田節彌子
寄付申し込み社 : 石川商会(アイバンホー婦人乗自転車1台)
四七商店(現金20円)
双輪商会(練習場特別取り扱い)
貴輪倶楽部(練習場特別取り扱い)
購入時特別割引 : 四七商店 宮城車店 石川商会
(イ)三田輪友倶楽部
35年3月に慶応義塾塾員・教職員・塾生・交詢社社員・時事新報社社員によって「三田輪友倶楽部」が設立され、37年には女子の体育を育成し、また社交を満足させるために「女子部」が設置された。37年5月8日に開催された女子部の遠乗会に参加した女性会員は次の14名であった6)。
※柴田環子 ※田中さの子 大桐あや子 ※横山糸子 井口あぐり子 長澤滋子 長澤愛子 竹川文子 ※寺澤まさ子 大野たね子 伊東豊子 ※東宮糸子 ※石川ふく子 マリーイストレキー
(※は「女子嗜輪会」会員でもある)
(ウ)明治桜輪会
35年5月に明治座帳元の河原崎権之助が俳優の惰弱を矯正するために自転車利用を推奨したところ、20数名が集まったことで「明治桜輪会」が設立された。当初は「社会のなるべく上流の人の入会を得て指導を仰ぐ」としていたが、会則で誰でも入会を認めることにしたことで、役者と一緒に遠乗が出来るという理由や、面白半分で入会するものがあり、設立してまもなく会員は100名に達した7)。
36年5月に改正した会則8)は次のとおりであった。
第1 本会は明治桜輪会と称し、乗輪家同好の士が集合しその道の発達を図り高潔なる清遊を行う
第2 本会は元来娯楽的の団体であるから先輩後進ということで交流を狭くすべきではなく、また交際は平等で質素とすることが必要である
第3 本会員の中より幹事5名を選ぶ ただし任期は1年とする
第4 本会は毎年春秋2季に大会を催す その際総会を開き幹事より庶務の要件、会計より収支の決算を報告する
第5 本会会員5名以上の請求があるときは特に遠乗会または臨時会を開催することができる ただし臨時会費を徴収する
第6 本会会議はすべて普通会議法に準拠し出席会員の多数決による
第7 本会へ加入しようとする者は会員の紹介を以て幹事の承諾を受けること 退会しようとするときは幹事へ理由書を提出して承諾を得ること ただし一旦納付した入会金および会費は返金しない
第8 会費未納3か月以上滞り若しくは乗輪規約に反するまたは本会の神聖を汚し破廉恥な行為のある者は衆議に諮って除名する
第9 本会会費は入会金50銭毎月会費20銭とする ただし本会創立前に入会した者は入会金を必要としない
(エ)東京彩輪会
37年3月頃に中川さかゑと梅木こま子らよって「東京彩輪会」が設立された。会則は次のとおりであった9)。
第1条 当部を東京彩輪会という
第2条 当部は在東京横浜間の芸妓同業者をもって成立する ただし地方の同業者は客員として入会できる
第3条 当部は芸妓同業者の親睦と運動を目的とする
第4条 当部は一切男子の入会を謝絶する
第5条 当部部員はいかなる事情があるとしても、他の自転車倶楽部へは入会できない
第6条 当部部員は部費として1年で50銭とする ただし遠乗会および大会の際はその実費を支払う
第7条 当部は例会のほかに毎年4月に大会を開催する そのときは部員の友人を同伴することができるが女子に限る
第8条 当部は入会申込所を当分の間、中川さかゑ、梅木こま子(下谷区数寄屋町)方におく
3.女性の自転車利用時における境遇
(ア)階層差別
「女子嗜輪会」の設立後、「上流の女子にも続々入会者あるとのことであれば、近き将来において一大勢力を作るのは疑いもない」10)「最も真面目に遣わしてもらいたいものだ。もし少しでも生意気な者があったら入会をどしどし断りなさい。」11)と男性乗輪者からの声が出た。同会会則第3条に「淑徳を重んじ常に質素を旨とする」とあるが、入会者はどのような女性であったのだろうか。
東宮糸子 四七商店店主・東宮和歌丸の夫人
柴田環子 公証人・柴田孟甫の長女
朝夷竹子 福井県尋常師範学校校長・朝夷六郎の長女
鳥居御杖子 東京音楽学校教授・鳥居忱の長女
井口あぐり子 女子高等師範学校教授
吉田惠香子 東京自動車製作所所長・吉田真太郎(日本最初のガソリン自動車製作者)の夫人
自転車関係・教育関係等の子女・職業が中心であったようであるが、設立して4か月後には1名の入会者と4名の退会者が出ており12)、37年2月の「輪友」第28号に「女子嗜輪会」は潰れたと記載されている。その理由は何にあったのであろうか。33年に最初の自転車専門誌「自転車」を発行した佐藤喜四郎は「輪界追憶録」のなかで、『芸妓にも何人かの乗輪家がいて、競走会に2名が出場したが、「女子嗜輪会」ではこの傾向を喜ばず、芸者風情が出場するとは競走会の神聖を汚すと苦々しく見ていた』と述べていて13)、不快感を露わにしている。また東京双輪商会の千葉胤義は『「女子嗜輪会」設置後一時盛況であったが、後に新橋芸妓等が自転車を乗るようになり、会員が芸妓衆ら卑陋と同じ仲間であると誤解されるのを恥じて活動を止めてしまった』と述べている14)。
また「輪友」第28号では女子の倶楽部は「三田輪友倶楽部女子部」のみで、立派な方々の令嬢が多数加入しているとも記載されており、「女子嗜輪会」会員も36年11月に数名が入会している15)。「三田輪友倶楽部女子部」設立に当たっては「三田輪友倶楽部」の規約を36年10月に改定し、誰が入会しても不体裁なこともなく高尚で、服装・行動が清遊的であるから、女子の体育を計りかつ社交を満足させるための部として設立してもよいとしている。したがって、入会する女性には、これまでのような単なる流行に加担するのでなく、質素な服装に努めて清遊効果と社交の実を上げていくことを求めている16)。併せて「女子嗜輪会」が潰れたのは、同会会則にある女子体育の進歩を謀ることをせずに単に流行を追ってしまったからであると指摘している。明らかに「三田輪友倶楽部女子部」は芸妓が入会することに拒否を示している。
これに対して「明治桜輪会」は会則の第2で「元来娯楽的の団体であるから先輩後進ということで交流を狭くすべきではなく、また交際は平等で質素とすることが必要である」とあることから、芸妓が入会することに反対しておらず、中川さかゑ(浅利富子)と梅本こま子(斎藤駒子)をはじめ、下谷数寄屋町の芸妓衆が入会をしている。しかし、この入会に対して同会会員による批判の声が「清輪」第4号[38年]に掲載されている。その内容は次のとおりである。
入会者の種族を選んで会員にしたら今日のような紛糾もなかったのでしょうが、無暗に入会を許したので、そのなかには実に感心できない人たちも入会し、甚だ会を非難すべきことが起こったのです。下谷数寄屋町の芸妓中川さかゑと梅本こま子が入会したことです。同会には女子会員として竹川文子という婦人もいますが、彼女は実業家の娘であって会の神聖を汚す行いもないでしょうから、入会は差し支えありません。しかし社会から醜業婦のように見られている芸妓を会員にしたのです。
同様に、共睦神輪倶楽部が36年12月6日に開催した忘年会の席で、下谷数寄屋町の2人の芸妓、斎藤駒子と浅利富子を同席させ、あたかも規定の手続きに従って入会させ、倶楽部は喜んで入会を迎えたことには驚き、呆れたという声も挙がっている17)。
これらから一部の人たちの中には男女を問わず、自転車の利用並びに自転車倶楽部は、上流階層社会の人々のためのものでなければならないという思想が根底にあったことがわかる。非難を浴びた2人の芸妓はこうした動きに対して、「明治桜輪会」を脱会して芸妓衆による「東京彩輪会」を結成し、男子の入会を一切謝絶し、いかなる理由があっても他の自転車倶楽部への入会をしないという方針を打ち出したが、これも「明治桜輪会」、「三田輪友倶楽部女子部」を意識した規定といえる。しかし、思うようには会の運営が進まず、「明治桜輪会」会員の協力を求めており18)、38年5月の同会春季総会では2人の芸妓から菓子の差し入れがあり19)、39年1月の同会の謹賀新年の挨拶広告には会員名として本名で掲載されている20)ことから、芸妓衆による倶楽部結成は失敗に終わった。また「女子嗜輪会」会員の多くが「三田輪友倶楽部女子部」に入会したということからも、男性の力なくしては倶楽部の存立が困難であったといえる。
(イ)男女差別
34年3月10日に神田区鍋町10番地(現在の千代田区神田鍛治町2丁目付近)の東宮宅にて「女子嗜輪会」例会が11名(東宮糸子、尾川松子、朝夷竹子、岩堀げん子、伊東かめ子、石川とり子、石川ふく子、田中さの子、岩瀬常子 他2名)の参加で、10時30分から三島通良の講話で始まった。昼食後、14時から遠乗会が7名の参加で17時まで行われた21)。そのときのコース(東宮宅を出発、神田大通りから昌平橋を渡り、高等師範学校[現在の東京医科歯科大学のある所]前を通り、順天堂病院前を本郷大通りに出て帝国大学[現在の東京大学]前を通り、駒込、巣鴨と順路輪を進め、午後3時に飛鳥山に到着。自転車を山上に引き、王子停車場を眼下にした。帰路は王子停車場裏から田端停車場脇を通り、根岸を経て上野山下に出て、両大師[輪王寺]前の坂を上り、博物館前[現在の国立博物館]を通って三橋に出て広小路から鉄道馬車路に沿って万世橋を渡り東宮宅に戻る。)は図1のとおりである。この時も往復の途中、沿道の人から幾多の評語を受けたものの、この日は一向に気にせずに快適に乗ることが出来たと感想を述べている。しかし、同会の遠乗会では佐藤喜四郎が「輪界追憶録」の中で護衛役として佐藤自身が伴走もしたが、向島に向かうときは職人や労働者が冷やかし半分で、佐藤に雑言を投げかけられ閉口した22)と書いている。
図1 (上の緑丸:飛鳥山 右側の青丸:上野公園 左側の青丸:帝国大学 下の緑丸:東宮糸子宅)
また、女性の自転車利用に対しては男性からも快く思っていなかったことが次の文23)からもわかる。
私は大蔵省主計局に勤務する日給40銭の加藤眠柳である。出勤前や日曜祝日には俎橋(現在の九段下脇にある)脇の貸自転車店でアメリカスネル社製レーサー車を借りて乗りまわしており、某倶楽部の競走連合の大競走会に参加し、それ以来競走会で勝利もしている。
ある日曜日の朝、この貸自転車店で私より先に来てアメリカウエスト社の婦人車を借りて、牛が淵公園の方へ走り去って行った女サイクリストがいた。年齢は22~23歳でカシミヤの黒の袴をはき、髪はイギリス銀杏に結んでいる。この女が巧みに乗るので、競走を試みようという念が起こり、全速力で走り出したが、女は全速力で文部省の横手を大蔵省の方へ走り去っていった。私はこの女に対して一種の不快の念が生じた。生意気で小癪な女であると思うのも、自転車操縦法が私よりも寧巧妙であるため嫉妬の情が生じたことによるからである
ある日、女サイクリストを追いかけた。女は馬場先橋前堀端から日比谷公園に沿って新幸橋をまっすぐに進み、愛宕町1丁目を右に曲がり、その先の右側にある東京病院に入った。私は愛宕町を新橋の方へ曲がり、桜田前から元園町を九段に出てそのまま自転車を返却した。
翌朝、貸自転車店で再びこの女と遭遇した。この日もこの女の後を全力で追いかけたが、女は約50m先を進んで東京病院に到着した。3日目の朝、この女は私の姿を記憶しているようで、私に対して恭しく会釈をするが、私は鼻先で嘲笑いした。また、ある日日比谷公園側で私が来るのを待っていて、『どこまでお出でになられるのでございますか』と問いかけられたが答えず、横を向いていた。私はこの女サイクリストを生意気で憎く、普通人とは認められない。
その後もおよそ20日間は貸自転車屋で遭遇し、その都度常に私に対して丁寧にあいさつをするが、私は軽蔑の眼で見た。
しかしその後、貸自転車屋でこの女サイクリストと出会うことはなかった。これまで毎朝出会っていたので出会わないことは快く思う一方で、なんとなく物足らず寂しくも感じるのである。
そこで貸自転車屋の主人に『どうしましたあの女自転車乗は』と問いかけてみると、主人はこう答えた。『あの御婦人は富士見高等小学校の教師で、1年ほど前に女子師範学校を卒業したそうです。当節はまだ御婦人で自転車にお乗りになる方は少なく、まして御婦人で自転車を借りに来られる方もほとんど皆無ですから、私も不審に思いまして、少しずつ探ってみると、お名前は増見せい子様とかで、69歳のお母様とご一緒に同じ富士見町にお住まいです。近所では評判の親孝行の御婦人で、生徒に対しても優しく、生徒はまるで母親のように慕っているようです。
ところが40数日前から受け持ちの生徒が脳病で学校を休んでいたようです。この生徒は成績も良いのですが家は貧しく、家を訪問したところ病が思ったよりも重かったので驚き、早速両親と相談して東京病院に入院させたそうです。しかも実に関心なのは、毎朝学校へ出勤する前に東京病院に行って、その生徒を見舞ったそうです。毎朝私の店に自転車を借りに来られたのは、そういう次第からだそうです。実に涙がこぼれるほど感心な御婦人ではありませんか。』
この話を聞いた私は感激した。かつて冷笑の眼で対応していたことに対して、返す返す心より恥ずかしいことであった。これ以来、私は道で他の女サイクリストに逢うことがあっても決して冷笑することはしなかった。
貸自転車の主人から話を聞いて約1週間後、九段坂上で図らずしもこの女教師に出会った。私は帽子を脱ぎ、直立して最敬礼したが、その姿に彼女は驚いた様子であった。
これが通学となると一人になるため、自転車倶楽部の遠乗会のときとは状況が異なる。41年のある一人の勝気な女学生の通学記録24)(経路は図2のとおりである)から当時の女性の自転車利用の困難さが読み取れる。
図2(上の緑丸:自宅 一番上の青丸:千住の青物市場 上から2番目の青丸:入谷 上から3番目の青丸:上野駅前 上から4番目り青丸:東京電車鉄道の路面電車 下の緑丸:東京女子高等師範学校
私は(現在の足立区中央本町にある足立区役所付近)に住み、東京女子高等師範学校(現在の御茶ノ水駅北側にある東京医科歯科大学にあった)へ通っている女子学生です。通学路は日光街道を南に下り荒川を渡り、千住、入谷を通って上野駅前へ出ます。そこから不忍池畔方面に曲がり中央通りに出て末広町を通って万世橋手前を西に曲がると学校に着きます。片道約12㎞で最初の2年間は歩いて通いました。学校の始業は年間を通じて午前7時のため、自宅を出るのは4時でした。さすがに往復6時間の徒歩は辛く、父に自転車を買ってもらって通学するようになるとわずか約40分から1時間ほどで通うことができました。しかし自転車に乗るときの姿は男女の区別がつかないように冬は父の二重回し(と呼ばれている男性用コート)を頭から被り、夏は黒っぽい筒袖を着ました。ところが如何せん自転車が女性用であったため、女が自転車に乗って毎日通るというので、12㎞の沿道ではその町々特有の冷評を浴びせ続けられたのです。
朝は6時前に自宅を出ます。しばらく走ると隅田川に架かる千住大橋の北側にある千住の青物市場(江戸幕府の御用市場として神田・駒込と並ぶ江戸3大青物市場の一つに数えられ、明治期も日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね[やっちゃ場]とも呼ばれ、活気あふれる問屋街であった。現在も東京都内唯一の水産物専門の市場として残っている)を通ります。そんな青物市場は午前3時に市が開きますので、6時頃は活気のある時間でもあります。このため、ここを通るときは毎日市場の人たちから次々に頭を叩かれました。さすがにこれには耐え切れず、自転車から降りて警察官に保護してもらいながら通るようにしました。本当にこの時は苦しい毎日でした。ここを通れば学校まではどこも通行人が少ないので比較的楽でした。
でもこんなことも時々ありました。上野駅前から末広町を通る中央通りには東京電車鉄道の路面電車が走っていました。この路面電車の運転手が『速力の競走をしましょう』と声を掛けてくるのです。からかわれているとわかっていますので、つい競走などしないと思ってはいても電車の後に残されるのも残念で悔しいので、上野駅前の車坂から末広町まで一生懸命走ってしまいます。でもやはり電車にはかないません。電車の後尾に付いていくのも私は勝気で負けるのも悔しいので負けそうになると卑怯ですが、横町へ曲がってしまいます。
帰りは学校を6時に出ますので家に付くのは7時頃です。この時間帯はどこも人通りが多く朝よりも大変なことが続きます。ある日のこと、上野広小路を通ると前方で子どもたちが相撲を取っていました。ベルを鳴らすと子どもたちは左へ避けたのですが、その瞬間勝負がついて負けた子どもがよろけながら私の自転車にぶつかってきたのです。私は人通りの多い道路の真ん中にあられもない姿で投げ出されてしまったので、思わず『畜生』という荒々しい言葉が涙と共に出てしまったのです。子どもたちは悪いことをしたと思ったのか、あっという間に逃げてしまいました。
また私は犬が苦手で『ワンワン』と吠えられると怖くなってなかなか前に進むことが出来ません。毎日通る道ですからどこの家に犬がいるかということがわかっていますので、その家の前に来ると胸がドキドキして無事に通れますようにと念じながら通っています。ところがちょうどそのときにその家の子どもが出てくると私に意地悪をしようとして犬をけしかけて吠えさせたり、ときには犬を道路まで連れ出して私の進路をふさいだりすることもありますので大変困ってしまいます。犬のことではこんなこともありました。ちょうど下り坂に来たとき、前に犬がいるではないですか。坂の下には溝があるため、いつもは注意を払いながら下っているのですが、この日ばかりは『犬が、犬がいる』と思って焦ったため、見事自転車共々溝にドボンと浸かってしまいました。幸い通行人はいなかったのですが、ご近所の人が何事かと何人か出てきました。その人たちに濡れた姿を見られるのも恥ずかしいことなので濡れ姿のままで帰りました。
家の近くでは若い男の人が道路に立ちはだかってじっと自転車に乗る私を見つめていることもあります。そんなときに転んだりするのは外聞も悪いので慎重に運転します。でも他の所で転倒したこともあります。私の前をおばあさんが歩いているのでベルをなしましたが、聞こえないようで避けようとはしません。そのとき正面から馬車が勢いよく走ってきました。あぶないと思って避けたとき、運悪くおばあさんも同じ方向に避けたため、おばあさんを突き飛ばして私も転倒してしまいました。起き上がったときはおばあさんの姿がなく、1時間ほど探したのですが行方は分らず、私も怪我がなかったのがせめての幸いと思って暗闇の中を帰りました。
しかし、毎日最も辛いことは沿道の男の人からの嫌がらせをされることです。特に上野駅から少し北に行った坂本から入谷あたりが最も激しく責められます。『何だい、この高襟は。』『生意気な奴、どやしつけてやれ。』『面は覚えているから次は覚悟しておけ』など汚い言葉を浴びせられます。また卑猥な言葉を言ってはみんなで笑うのです。さらに休みの日に学校の図書館に行くときは何も持たずに自転車に乗りますので、『芸者が自転車に乗って行くぜ、当世だなあ。今日はどこで何があるのだ』と若い人から声を掛けられたときなどは悔しくて腹が立ち、言い返そうとも思いましたが、大人げないと思い、黙って唇をかみしめて通り過ぎたこともありました。
嫌がらせは言葉だけではありません。ときには家の中から石を投げられたり、水を掛けられたりしたこともありました。そのたびに自転車から降りて一人一人殴ってやりたいほど胸は煮え返っていますが、我慢して風のように通り過ぎています。
でもこの付近を通るときはいつも嫌なことばかりが起こるのではありません。毎日通るので私を電話局の交換手と思ったらしく、『どこの交換局へ通っているのかな?なかなか感心な女だな。』という声を耳にしたことがあり、思わず笑ってしまいました。
また学校近くの昌平橋近くを歩いていたら、『お姉さん、自転車はどうしたの。もう乗らないのかい。』といわれました。やはり女が自転車に乗ることはよほど目につくものだと妙なところで感心しましたが、注意さえすれば決して他人にケガをさせず、自分もケガをせず大変便利でよいものだと私は思っています。
4.自転車利用女性に対する差別化の背景
自転車利用女性に対する差別化の背景には階層と性別の2つがあった。階層による差別では特に芸妓を卑陋、醜業婦として見下げていたが、彼女たちにはこの他に「自転車芸者」と呼ばれ、絵はがきを売り出したりして自転車を乗ることで人気を得るという、一種の宣伝広告活動目的に対する反感もあったと考えられる。
性別による差別には2つの根源がある。それまでの女性に対する男性からの既成概念と自転車価格である。かけそば1杯が40年に3銭、醤油1.8㍑が38年に32銭、白米10㌕が40年に1円56銭、巡査の初任給が39年に12円、公務員の初任給が40年で50円25)のとき、自転車価格は32年に200円から300円、40年に130円から230円26)は一般庶民にとって簡単に買える価格ではなかった。したがって特に女学生が自転車で通学する姿は女性の快活な姿に対する偏見と価格から来る妬みが混ざって生じた差別化と考えられる。
この他、女性が自転車に乗ることによって子宮に悪影響を及ぼすという考えが30年代に広がり、女性の自転車利用を否定する声が出た。これに対して東京帝国大学教授で医学博士の入澤達吉をはじめ、専門家が否定をした27)が、この考えは大正期まで残っていた。例えば大正15年発行の女性用自転車のカタログに「性理的弊害絶対無之候」の文字が入っている28)。また大正13年、広島県立上下高等女学校で生徒の体育向上のために自転車利用を奨励したのに対して、県衛生課は「女子殊に春情発動期時代の女子に自転車乗を奨励することは婦人衛生の見地からして由々しき大問題である。少女が自転車に乗ると子宮は後屈して分娩時難産を起こしやすく(以下略)」29)といって女学校の方針を非難している。県衛生課はさらに「風儀からいってもあまりいいものではない」と続けていることから、女性を自転車に乗らせないための理由として子宮に悪影響を及ぼすという考えを持ち出したともいえる。
このように女性の自転車利用に対する階層と性別による差別化や、医学的に間違った考えは昭和の時代に入り消えて行ったが、女性用自転車の製作販売に関しては昭和30年代まで待たなければならなかった30)31)。
引用文献
1)玉蘭斎貞秀 「横濱開港見聞誌」 名著刊行会 1979年
2)読売新聞 明治27年8月4日号
明治27年8月2日、午後5時頃南豊島郡角筈村の往来を、麹町区富士見町1丁目の篠崎たか子という18歳の女性が更紗の洋服を着て自転車に乗っていた。ちょうど前方から荷馬車を引いた百姓が近づいてきたので、女性は鈴をリンリンとならしたところ、馬が驚いて飛び上がり、その瞬間荷馬車が転倒して女性の乗った自転車にぶつかり、女性は傍らの溝の穴に落ちてしまった。このため、左足と腰骨を痛めて苦しんでいたところを、通行中の巡査が見つけ、直ちに名倉出張所に連れて行き、治療後自宅まで送った。
3)山田貴史 「明治初期から昭和初期までの自転車クラブの変容」 余暇学研究第9号 日本余暇学会 2006年
4)高橋達 「佐藤半山の遺稿『輪界追憶録』抄② 明治中期の自転車事情」 自転車第67号 日本自転車史研究会 1992年
5)「自転車 第6号」 快進社 1901年
6)「輪友 第31号」 輪友社 1904年
7)「清輪 第2巻第4号」 清輪社 1905年
8)「輪友 第20号」 輪友社 1903年
9)「輪友 第30号」 輪友社 1904年
10)「自転車 第6号」 快進社 1901年
11)「自転車 第6号」 快進社 1901年
12)「自転車 第9号」 快進社 1901年
13)「自転車 第67号」 日本自転車史研究会 1992年
14)「輪友 第26号」 輪友社 1903年
15)「輪友 第33号」 輪友社 1904年
16)「輪友 第27号」 輪友社 1904年
17)「輪友 第27号」 輪友社 1904年
18)「輪友 第33号」 輪友社 1904年
19)「清輪 第2巻第3号」 清輪社 1905年
20)「自転車 第62号」 快進社 1906年
21)「自転車 第9号」 快進社 1901年
22)高橋達 「佐藤半山の遺稿『輪界追憶録』抄② 明治中期の自転車事情」 自転車第67号 日本自転車史研究会 1992年
23)「自転車 第6号」 快進社 1901年
24)「輪界 第12号」 輪界雑誌社 1909年
25)「値段史年表 明治大正昭和」 朝日新聞社 1996年
26)竹内常善 「形成期のわが国自転車産業」 国際連合大学 1980年
27)1903年(36年)発行の「輪友 第17号」に「自転車乗用の医学的観察」と題して入澤達吉の講演の概要を掲載している。この他にも1905年(38年)発行の「清輪 第2巻第10号」に「医家の自転車観察」と題して医師丸東の談話を掲載している。
28)「日向タイムス 第78号」 日向商会 1925年
29)「輪業世界 第74号」 輪業世界社 1924年
30)谷田貝一男 「昭和30年代における女性の自転車乗車率の上昇原因」 自転車文化センター研究報告書第2号 2009年
31)谷田貝一男 「シティサイクルの誕生発展と社会文化との関わりの歴史」 自転車文化センター研究報告書第3号 2011年