前代未聞!サイクルスポーツ掲載「自転車物語」生原稿掲載 第二回。

八重洲出版から発売されている「自転車物語」シリーズ、その第一巻スリーキングダムをサイクルスポーツ誌に連載していた生原稿のさらに原板(細部が異なります)で再掲載します。
単行本「自転車物語・スリーキングダム」では、単行本用にほぼ書き直しに近く大幅に加筆訂正しています。
連載第2回
自転車物語
角田安正

自転車の祖、ドライジーネから40年。前輪にペダルの付いた初の駆動式二輪車、通称「ミショー型」がパリで誕生した。

第二話 世界初の量産自転車
足が地面から離れた!第2世代の自転車誕生
1861年、パリの凱旋門近くの小さな工房。
「親方はいるかい?」
近くに住む帽子職人が、1台の足蹴り式自転車ドライジーネを押して入ってきた。
親方と呼ばれた男の名はピエール・ミショー。東フランスの小工業都市の貧乏家庭に生まれ、地方を転々としたのちパリに移住し、馬具作りの技術を覚えた。今では息子たちと街の便利屋のような鍛冶屋を営んでいた。
「こいつの具合が悪いんだ」
ピエールの長男アーネストが、自転車を受け取り点検した。
「うーん、厄介(やっかい)だな。2~3日はかかりますよ」
その日一日、親子二人がかりでどうにか修理した。
「おい、アーネスト、家の回りを走ってみてくれ」
ひと走りしてきた息子が言う。
「うまく直ってたよ。でも足蹴り式は力がいるから疲れるね。乗り心地も悪いねえ」
史上初の自転車ドライジーネが発明されて40年がたち、フレームが鉄になるなど多少の進歩はしたが、まだ原始的だった。「下り坂ではスピードが出るから足を上げていたんだ。でも、足がじゃまになってね。足を乗せる棒をつけたらどうだろう?」
息子は父親に提案した。
「でも、そんなのはどこかで見たなあ。新しい工夫をしたいね」
作業場を見回していたピエールは、片隅に転がっている挽(ひ)き臼(うす)に目をやった。
突然、テコの原理が閃(ひらめ)いた。
「そうだ!前輪の軸の左右に足乗せ棒をつけ、棒を踏んで前輪を回転させたらどうだろう」
息子もすぐ理解して答える。
「その棒をクランクのように曲げ、先端に踏み板を取りつける。片足を踏み見込めば、反対側の足が上がって車輪が廻る。こりゃ、一石二鳥だねえ」
父親が図面を引き、息子が工作して試作車ができあがった。
「アーネスト、乗ってみてくれ。臼を廻す要領だよ」
試乗したがすぐ横転した。足蹴り式は両足で支えるから倒れないが、足が地面から離れているペダル車は、回転が止まると倒れる。連日猛練習を繰り返し、ペダルとクランクで前輪を回転させるコツがつかめてきた。

ミショー型は世界で最初の量産車になった
ペダル式は、足蹴り式に比べスピードが速い。乗車感も楽しい。が、バランスが崩れて倒れやすい。「どうやら、フロントフォークの角度とも関係がありそうだ」
工夫を重ね、直進安定性のよいキャスター角(フロントフォークと地面の角度)をみつけた。
ミショーはこれなら商売になると、生産を始めた。
61年は2台だったが、62年142台、65年400台とうなぎ登り。小売価格は1台500~625フラン(今日の日本円推定50~60万円)、当時はとても高額だった。
ミショー型の登場によって、下火になっていた自転車が再び流行、イギリスにも輸出された。
皮肉屋の英国人は、石畳の道で背骨がガタガタになるほどゆれるミショー型を、「ボーンシェーカー(骨ゆすり)」と呼んだ。
とはいえ、需要は全欧州に広がり、ミショーの事業は成功した。
パリ万国博のあった67年には1,000台を生産、工員も300人を超す大企業となった。
だが、ミショーは48才の働き盛り。「もっと事業を拡大したい。誰か出資者はいないか?」
このころ、ミショーの工場に出入りしていたオリバーというメカ好きの兄弟がいた。2人ともパリのエンジニア養成の超エリート校の学生だった。兄弟は自転車に興味を持ち、ミショー親子と木製スポークの軽量化などの技術論をしばしば戦わせていた。
68年オリバー兄弟は、リヨンで化学工場を営む実家の資金援助を得て、ミショーと共同会社「ミショー&カンパニー」を設立。
まさに前途は洋々だった。

発明者はほかにもいた?もう一つの物語
時代が熟成すると、同時期に同じ発想をする人が複数現れても不思議はない。
ドイツのベンツとダイムラーは、全く同じ時期に別々にガソリンエンジンを発明したが、生涯2人は面識がなかったという。
前輪ペダル車の発明については別の説もある。
フランスのナンシーに、ピエール・ラルマンという19才の乳母車職人がいた。
ミショーより1年遅れの1862年、独自で工夫を重ね前輪ペダル車を開発した。
翌年、パリでオリバー兄弟と知り会いこれを見せた。
「いいじゃないか!これは画期的だ!新事業になる!」
オリバー兄弟はそのころドライジーネ型自転車の製造を始めていたミショーにラルマンを紹介した。ミショーも驚き、ただちにラルマンを自転車技師に雇い、ペダル車の生産を開始した。だが、発明者であっても使用人にすぎないラルマンには報酬が少なかった。
腹を立てたラルマンは、ミショーと別れてアメリカに移住、ペダル車の米国特許を取得してミショー型の生産を開始した。
だが、アメリカの自転車需要は時期尚早で事業は失敗。夢破れて特許をアメリカ人アルバート・ホープに売却、3年で帰国した。
その後はパリで細々と自転車を製造していた。
ところが、ミショー型がアメリカでも大流行した。
ラルマンは特許訴訟で再渡米して法廷に立ったのち、トップ企業に成長したホープの「コロンビア自転車」で働き、47才のときボストンで亡くなった。
死ぬまで「ペダル車はオレの発明だった。ミショーに横取りされた」と言い続けたという。
後世の史家は、曲線フレームが特徴の前期ミショー型を「ラルマンタイプ」と呼び、その名を今に残している。
ピエール・ミショーとピエール・ラルマンの2人のピエール。歴史は、事業化に成功したミショーに「ペダル王」の名を与えたが、真実は藪(やぶ)のなかである……。

多彩なサイクルスポーツが始まった
部品が木から鉄に換わり、車輪にはゴムが巻かれた。前輪は大きくなってスピードを増した。鉄製フレームは空洞になって軽くなり、弾力性のあるサドルも開発され、ハンドル上で操作できる鉄ブレーキが後輪に付けられた。
スポーツ性が高くなった自転車は、新しい競技としての歴史の幕を開けた。
65年には世界初のサイクルツーリング。オリバー兄弟と友人1人が、パリ~アビニョン間746kmを一日平均90km/h、8日間で走破した。
68年には世界初の公式レース。場所はパリ・サンクール公園、距離1,200m、参加者200人、優勝は19歳のイギリス人ジェームス・ムーアであった。
翌69年に世界初の長距離ロードレース。パリ~ルアン間134km、優勝は同じムーアで平均12.9km/h。ムーアは獣医になったのちもレースで勝利を重ね、競技史上最初の英雄(ヒーロー)になった。
同じ年、イギリス、イタリアでもレースが初開催され、パリでは初のサイクルショーが開かれた。
しかし、一般人には自転車は危険な乗りものとみなされ、警察当局によってしばしばレース規制がおこなわれた。実用車としての普及の道はまだ遠かった……。

鑑定価格は120万円
スポーツ需要が急増したため、パリを中心に200社もの完成車と部品企業が生まれた。造船所などの大企業も部品製造を始め、自転車は工業製品としてフランスの一大産業になった。
ミショーは、ひとつの産業を成立させた功労者として「フランス自転車工業の父」と呼ばれるようになった。
この頂点で、ミショーとオリバー兄弟は利益配分でもめ、ミショーは自転車事業から身を引く条件で、オリバー兄弟に会社を20万フランで売却した。
ところが、すぐにミショーが別の新会社を設立したため、オリバー兄弟と裁判沙汰になり、相互に経済的損失を蒙(こうむ)った。
1870年に普仏戦争が勃発、ナポレオン3世のフランスは敗北し、戦争の煽(あお)りで自転車工業も衰退、ミショーもオリバー兄弟の会社もあえなく倒産した。
ミショーは貧窮(ひんきゅう)のなか70歳で死去、フランス自転車産業の栄光も消滅した。
それでも、自転車競技はフランス人のなかに根強く残り、100年を超える歴史を誇るツール・ド・フランスなど今でも盛んである。
時が経ち、2011年。わが国の古美術品鑑定で人気のテレビ番組「なんでも鑑定団」に、祖父が残したというアンティーク・ミショー車が出品された。
中島誠之助たち鑑定人がつけた価格は120万円だった。
奇(く)しくもそれは、ミショー車生誕150年のアニバーサリー・イヤーのことだった。

1年前