八重洲出版から発売されている「自転車物語」シリーズ、その第一巻スリーキングダムをサイクルスポーツ誌に連載していた生原稿のさらに原板(細部が異なります)で再掲載します。
単行本「自転車物語・スリーキングダム」では、単行本用にほぼ書き直しに近く大幅に加筆訂正しています。
連載第1回
自転車物語
角田安正
連載にあたって
「自転車と自動車、どちらが先に発明された?」と聞くと、ほとんどの人が「自転車」と答える。
しかし、自動車の発明は1769年、自転車は1817年、自動車が50年も早い。
だから「自転車が自動車に発展した」と言うのは間違いで、「動力が蒸気エンジンになった馬車が自動車に発展した」とするのが正しい。だが、自転車には自動車を発達させた歴史がある。
1865年ガソリンエンジン自動車が発明されたとき、車体は自転車であった。
また、ギヤ変速機構・チェーン駆動方式・空気入りタイヤなどは自転車技術の応用である。製造面でも自転車メーカーは自動車も製造し、有名なフォードの大量生産方式も自転車から学んでいる。
欧米でも日本でも、自転車が上流社会のシンボルとなり、産業の主役になった時代があったこともあまり知られていない。
この「自転車物語」は、200年にわたる自転車史に題材を求めて、人・企業・経済・社会と自転車の関わりを描いた連作物語である。
歴史に学ぶ「温故知新(おんこちしん)」の教えに習い、連載を通して自転車の世界に新しい光をあててみる。
自転車の祖といわれる「ドライジーネ」。そしてその発明者であるドライス男爵。
今回はその栄光と挫折の人生に光を当てる。
第一話 ドライジーネの伝説
歴史はドイツの黒い森バーデンから始まった
1785年カール・フォン・ドライス、通称「ドライス男爵」は、ドイツ南西部バーデン大公国のカールスルーエで、由緒(ゆいしょ)ある貴族の家系に生まれた。
少年時代から秀才と謳(うた)われ、秀でた額(ひたい)と大きな眼(まなこ)は、いつも何かを考えている印象を与えていた。
彼はハイデルベルグ大学に進み、数学、物理学、建築学を学んで、のちに多くの発明をする科学知識を身につけた。
卒業後、バーデン国有林の森林管理官に任官、「森林男爵」とも呼ばれる。管理のために広大な森を馬で見回るうちに、世話のやける馬ではなく、人力だけで走る簡便な乗りものの発明を思い立つ。
最初は二輪車をつくり、またがって足で地面を蹴って進もうとした。だが、前進するとすぐに横転、やむなく倒れない四輪車で特許を取ったが、大きく重すぎた。
ある日、「そうだ、ハンドルを付けて二輪車の前輪と後輪を別々に動かせば、前進しても倒れない」と気づく。まさにコロンブスの卵であった……。
1817年、32才のとき、オール木製の足蹴り式縦列二輪車「ラウフマシーネ」(=走る機械)を完成、自分の名前に因んで「ドライジーネ」と命名した。今日でもドイツでは、ドライスの発明品の一つである鉄道用トロッコをドライジーネと呼ぶそうだ。この年から自転車史は始まった。
世界最初の自転車スピード記録がつくられた
「何としても、ドライジーネのデモ走行の許可をいただきたい」とドライスは食い下がる。
相手のバーデン国・内務大臣は、不格好な木の自転車なんてばかばかしい、と内心思っているからなかなか「うん」と言わない。そもそもマンハイムとキール間は50キロもある。駅馬車より速く走れるわけがない……。
それでも大臣は、執ように繰り返される願いにへきえきして、
「わかった。そんなに頼むなら許可しよう。だが、官吏の副業は禁止だから、森林監督官の制服でなく私服で走ってくれよ」
喜んで退出するドライスの後ろ姿を見て、大臣は思いつく。
「ちょっと待て。貴公のそのヘンテコなものが、本当に速く走れるか、賭をしようではないか?」
ドライスは挑戦にうなずいた。
「駅馬車は同じ区間を16時間で走っている。その半分以下で走れたら、貴公の勝ちだ」
結果はドライスの勝利だった。わずか4時間、時速12.5km/hで走破したからだ。
沿道でドライジーネを見た人々の口コミ効果は抜群だった。地元の週刊紙もニュースに取り上げ、馬車より速い自転車の話題で持ちきりとなった。
ドライス男爵は宣伝上手
いつの時代でも新奇なものや先端をいくものは、異端視され無視され、ときには嘲笑(ちょうしょう)される。
だから、見せるだけでなく、乗せることも大切だ。
1818年初公開の試乗会が、パリのリュクサンブール公園でおこなわれた。噂はフランスにも聞こえていて、早朝から3000人もの大観衆が詰めかけた。
人々が見つめるなか、フランスの代理業者がドライジーネに乗った。が、前夜降った雨のせいで地面が柔らかく、触れ込みほどのスピードが出ない。
「何だ!子供と競走しても負けるじゃないか!」観衆は囃(はや)し立てる。
「ちょっと、わしにも乗せてくれ」一人の飛び込み客は、数メートルで転倒した。結局、試乗会は大失敗。ドライジーネは物笑いの種になった。
だが、このときの失敗は失敗ではなかった。試乗会に来たパリの主要新聞が、こぞってドライジーネを記事にしたからだ。
物見高いパリジャンは、この異形の乗り物を面白がった。紳士がドライジーネにまたがった戯画(ぎが)も発売された。劇場では「ドライジーネを拝借」と題する風刺(ふうし)劇が30回も公演された。祭りなどのイベントにも貸出され、知名度が上がっていった。
ドライジーネ、上流階級のシンボルとなる
ドライスはイメージ戦略も巧みであった。
王侯・貴族・将軍・政治家・富豪たちに、「ドライジーネは遊びだけでなく、速歩機として実用にも使える。全身運動にもなり健康に役立つ」と男爵の地位を利用して親書を送った。今でいうダイレクトメール作戦である。
また、上流階級の証しである四輪馬車の持主に、「馬のえさも蹄鉄も不要、経済的だ」と宣伝したところ、御者(ぎょしゃ)や蹄鉄工が失業の危機感から反対運動をしたという誇張話も残っている。
こうしてドライジーネは、金と暇のある上流階級のぜいたく品として、ステイタスシンボルになる。都市には自転車練習所ができ、多くの紳士が練習に励んだ。
当時の市街路は石ころだらけのでこぼこで、ほこりっぽく雨が降るとぬかるむ。道幅は狭く馬車と人がぶつかりそうに往来している。そこをゴツゴツ走る足蹴りドライジーネは、本当に楽しかったのだろうか?
とはいえ盛大な人気をみて、多くの製造希望者が現れた。ドライスは独仏の特許を取得していたので、使用権を認めた者だけに、車体につける銀製プレートを有料で交付した。今日のライセンスビジネスのはしりである。
さらに流行はドーバー海峡を渡った。
ロンドンのデニス・ジョンソンという馬車製造業者が、鉄製のフレームや女性も乗れる低床式を新開発した。これらは「ホビーホース」と呼ばれて人気になり、当時では破格の年間数百台も生産した。ジョンソンの工場は「世界最初の自転車工場」とされている。
しかし人気の反面、批判も多かった。
詩人ジョン・キーツは「ホビーホースは日常生活には無縁なもの」と評した。ロンドン警視庁も「自転車レースは危険」と競技場を閉鎖した。いくつかの都市では公道走行を禁止した。
栄光と挫折の日々
ドライスは事業拡大をもくろむ。それまでの外部委託生産をやめ、ドライジーネの新工場を建設した。そこにはヨーロッパのハイソたちが、ニューモデルを求めてやってきた。
ドライスは経営のかたわら、多くの発明に力をいれた。自動楽譜タイプライター・16文字速記機・潜望鏡・代数学の二進法(コンピュータの祖先)などなど。
この頃から、栄光に輝いていた人生が暗転していく。
発明と経営の才能は別のものらしく、拡大計画は失敗。特許料を払わない模倣車が次々と現れ、提訴したくも金がない。やがて工場を手放し、数々の発明に費やした資金も回収できず、親譲りの財産も底をつく。
1848年、バーデン革命が起こり、民主主義者として貴族特権を放棄、恩給もなくなる。革命失敗後は「狂った男爵」と呼ばれ迫害される。
その後のドライスは、すり切れた森林管理官の制服に、ドライジーネの見本を持って流浪の生活を続けた。1851年、失意のうちに毀誉(きよ)褒貶(ほうへん)に満ちた波乱の人生を終えた。66才だった。
時が流れ、ドライジーネが歴史的な発明品だとわかったドイツ人は、故郷カールスルーエに「ドライス男爵顕彰碑」を建てた。没後40年経っていた。今日、ドライスは「自転車の父」と認められ、ドライジーネは世界で最初の自転車として伝説になっている。